私事になるが、僕たち夫婦が、東京の江東区から八街に引っ越してきて約2年。貸家の更新時期が近づいてきたところで、僕たちは先日購入した芝山町の土地の近くに改めて別の貸家を借りることになり、今回、これまで暮らしていた八街市朝日の貸家を引き払うことになった。
借りた貸家は、引越しのシーズンにあまり選択の余地もなく決めた物件で、ファミリータイプの戸建物件であったために、子供のいない僕たち夫婦の生活スタイルに適応せずやや使いづらい面は多々あったものの、八街での暮らしそのものは、僕も妻もさしたる不満があったわけでもなく、懸念していた砂嵐も限られた時期のみのものであった。
朝日区(八街は自治会を区単位で表記する)は戦時中には陸軍の飛行場が設置され、戦後も成田に先立って、国際空港の最初の建設候補地として挙げられたほどの平坦な地勢である。激しいスプロールに見舞われているのは八街の他の地域同様だが、徒歩圏内にスーパーもあり、野菜の無人販売所も多く、北総台地の暮らしを満喫するのにはうってつけの環境で、天気の良い日は、朝日区の広い空の下を妻とよく散歩していた。そして、僕たちは当初は、この朝日区から土地探しを開始したのだ。朝日区は当ブログの原点でもある。
ところが朝日区は八街駅や八街の商業地から比較的近い立地で、成田方面に向かう際に八街市内の渋滞個所を干渉しないことから、どの分譲地もそれなりに家が立ち並んでおり若い居住者も多く、今日残されている更地・売地は、価格的にも環境的にも、それこそ残り物としか言いようのない悪条件のものばかりであった。そのいくつかは当ブログでも紹介したが、火災で半焼した廃屋の隣であったり、事実上ゴミ捨て場と化した自称「資材置き場」や太陽光パネル基地の隣であったり、はたまた地盤沈下していたり、単純に相場より高すぎたりと、明白な理由があって買い手がつかず今日まで売れ残っているものしかなかったのだ。
僕は、おそらく朝日区内の売地はすべて見学したと思うのだが、結局、朝日地区内での土地探しは断念せざるを得ず、さりとて住み慣れた八街からあまり遠く離れるのも寂しく、妻も八街市内で勤務していることもあり、八街へアクセス容易な近隣市町村の土地として、芝山町の八街寄りの土地を選ぶこととなった(芝山は商業施設が少ない)。ということで、今回は、この僕が暮らした八街市朝日の分譲地を、実際に居住した経験から簡単に紹介していきたい。
この分譲地は、70年代の初頭に開発された市内でも古い分譲地で、僕がこれまで紹介してきた他の分譲地同様、最初の取得者は投機目的での購入がほとんどだが、数戸だけ、当初から住宅用地として取得し、住宅を建てて今でも暮らしている方がいる。その方によれば、ここに越してきた当初は周囲はそれこそ広大な農地と雑木林しかなく、春先ともなれば毎年一寸先も見えぬほどの猛烈な砂嵐に見舞われ、当時は分譲地内の街路もすべて未舗装で、夏ともなれば藪払いに追われる有様だったようだ。
開発時期が古いため街路は狭く、今となってはこの地域と八街駅を結んでいた路線バス(両国~八街線)も廃止され、上下水道もいまだ配備されることもなく、古くからの住民の方は八街の町のあり方ににわだかまりも多いようで、近隣の方から不満を耳にする機会も多かった。しかし不満の源はやはり、分譲当初や、その後のバブル期における土地の取得金額が、今日の地価水準と比較してあまりに高額であったことだろう。聞けば、この分譲地は、バブル期には60坪で2000万円の価格が付けられていたそうだ。長い地価下落の時代を経た今、実勢価格は、おそらくその10分の1にまで落ちているはずである。
ちなみに余談であるが僕が購入した芝山町の土地も36坪で50万円であったが、仲介業者によれば、やはり分譲当初は10倍以上の価格であったことは間違いない、とのことである。もっともこれは北総に限らず日本各所で見られる現象であると思うが。
投機目的で取得した所有者も購入当初は強気で、実際に家を建てて暮らし始めた住民の方が、菜園用地や駐車場用地とするために隣地の所有者に購入の話を持ち掛けても、まだ地価が右肩上がりだった時代は、さらなる値上がりを期待してか頑として首を縦に振らなかったそうなのだが、時は経ち、バブルは崩壊し、いよいよ住民の方が高齢となった近年、今頃になって今度は土地の所有者側から、自分の土地を買ってくれないかと打診が来るようになったそうだ。
しかし、時すでに遅し。今更数十坪の畑を取得しても、もはや体力的にその維持が難しくなっている高齢の住民は、新たに土地を買い増す意思はすでになく、需要と損切りのタイミングを完全に失った売地は、今も住宅の合間で買い手を待ち続けている。それらの空き区画は数社の草刈り業者によって管理されているが、中には既に放置され、雑草が伸び放題となっている区画もある。聞けば、所有者に連絡が取れないそうだ。
他の限界分譲地同様、分譲地に建てられている家屋はバブル末期の地価高騰時に建てられたものが多いが、当初の取得者は既に手放している住宅がいくつもある。僕が借りていた貸家は1991年築であるが、今日までに2度も競売に掛けられている金銭面に特化した曰くつき物件であり、僅か20戸ほどの小規模な分譲地でありながら、分譲地内は我が家を含めて、僕が知る限り6戸の貸家が存在した。いずれも、最初から貸家として建築された家屋にはとても見えず、当初の取得者が何らかの事情で手放した家屋が貸家として供給されているのだろう。
そして、先でも少し触れたように、この分譲地には上下水道が配備されていない。今建てられている家屋はすべて、上水道は井戸、排水は個別の浄化槽で賄っている。区画によっては、浄化槽の排水を流し込む側溝に接続されておらず、宅内処理(浸透排水)を行っている家屋もあるが、多くの家屋は浄化槽の排水を側溝に流し込んでいる。
ところがこの分譲地で問題なのは、街路は八街市道でありながら、これらの側溝は各分譲地の私有地内に設置されているがゆえに、側溝の管理を行政が行ってくれない。古い規格の細い側溝は、周囲の畑や空地の砂泥が流れ込んで頻繁にヘドロが溜まるため、この分譲地では、側溝を利用している住民が2グループに分かれ、各グループごとにひと月に一度、共同作業で側溝掃除を行っている。これは既に高齢となった住民にとっては重い負担で、僕たちが住み始めてから1年ほど後、遂に区画所有者同士で積み立てた管理費を使い、砂泥の流入防止のための側溝の蓋を購入して設置する運びとなった(僕は賃貸居住者なので積立金は負担していない)。
この側溝の清掃・管理作業は、あくまでこの分譲地の住民のみが自主的に行っているものである。朝日区は広いので自治会は各エリアごとの班に分かれているが、この分譲地の住民で構成される班の住民が、自主的に管理を行っているものだ。同じ朝日区内でも、当然ながら分譲地によって販売時期や設備はそれぞれ違いがあり、ある分譲地の維持管理を別の分譲地の住民が負担するのは不合理な話である。
ことほど左様に限界ミニ分譲地においては、自治会の枠組みとはまた異なった、分譲地単位での自主管理が必要となるのだ。自治会の班の班長は単なる持ち回りであり、この管理作業が誰の主導で行われてきたのかわからないのだが、僕が暮らしたこの分譲地は、住民主体の管理のシステムがよく構築されている方だと思う。逆に住民の管理意識が低く、このシステムが十分に機能していない分譲地は、側溝は土砂に埋もれて崩れ落ち、利用不可能となっている。そんな分譲地はもはや崩壊のカウントダウンが始まっていることは、これまで当ブログで報告してきた通りだ。
それにしても全く公平でないと思うのは、実際に居住している住民は自らの住まいのインフラに関わる事であるから自主管理は仕方ないとしても、空き地の不在地主の方々の多くも、近隣住民への影響に配慮し草刈り業者を通じて通年管理を行っているにもかかわらず(当然有償である)、一部の区画の不在地主は、こうした自主管理に責任を持つこともなく、草刈りすら行わず(未管理の区画は近隣住民が草刈りを行うことが多い)、完全に放置していることだ。使用する意思がないとか、暴落した今の価格では売りたくないとか、そんなことは近隣住民の知った話ではない。
法的に言えば、それでも不在地主の所有権は保護されるべきものであるだろう。これから僕が述べることは、ある一方の立場の勝手な意見であることは承知している。しかし、こうした未管理の区画が、果たして適切に管理されている区画の所有者と同様、所有権が平等に保護されるべきなのかどうか、僕は疑問で仕方ない。投機に失敗した現実と向き合わず長年放置し、草刈りの負担すら近隣住民に押し付け、時には不法投棄の温床となろうとも黙殺する。
一方でこのような未管理宅地に隣接する区画の所有者は、この未管理区画があるがゆえに売却がままならないケースも多々存在するはずなのだ(実際、僕が購入を見送った土地の多くもこれが理由だ)。現状では多くの場合、未管理の区画は地域にとって有害な存在なのである。これまでも繰り返し述べてきていることだが、管理する意思がないのなら、登記簿上の「所有者」など、優先的な使用権を失ってもやむを得ず、そして近隣住民による不在地主の所有地の管理を正当な権利の行使とする法的整備が必要であると、僕は何度でも訴えたい。それが所有者不明土地問題の解決の糸口のひとつとなり得るのではないかと考えるのだ。
僕が暮らした分譲地へのアクセス
八街市朝日
- 東関東自動車道佐倉インターより車で約30分
- 総武本線八街駅より徒歩30分
コメント
更新を心待ちにしておりました
朝日地区の整った碁盤の目の航空写真を見て
過去の開発においてなんとかならんかったのかな~と
あ~シムシティやりたくなってきた
Twitterの方も拝見しました
現在住まわれている貸家ですが
一応それでも、全国に名の通った住宅メーカーの建物です
(破風板・幕板・雨樋の納まりで瞬時に判りました)
昭和50年半ばころまでは質より量の時代でしたので・・・
@はくびしんさん
いつもありがとうございます。引っ越しやらなんやらで、更新が滞っていてごめんなさい。
朝日区は確かに碁盤の目状で一見道路は整然としているのですが、ほとんどの道が幅4m程度の狭い道路で、田んぼのあぜ道と変わらない感じですね…。財政規模の脆弱な農村が突然住宅開発の嵐にさらされると、こういうインフラが後手に回ってしまうんですね。
今の家は一応住宅メーカーのものなんですね。暮らしてみて感じたのは、このくらいの築年の家は僕が子供の頃によく見かけた年代のものですが、あの頃はみんな、こんな粗末な家に住んでいたのか、ということです。古さは仕方ないとしても、建具などが粗末ですよね。住宅開発の手法にせよ、住宅のレベルにせよ、これが当時の限界だったのかもしれません。
はじめまして。3坪から5坪の小さい建物を建てて秘密基地のように使うのが夢で、どこに建てようか思案しているうちに貴サイトにたどり着きまして、記事を参考に山武郡市と長生郡市の分譲地を見て回りました。
驚いたのは、舗装もされていない幅員4mくらいの狭い道しかない分譲地、ほとんど山林化した分譲地、舗装道路の形をしていても建築基準法上の道路ではないので建築不可という分譲地、水道はおろか電線すら来ていない分譲地、先住の人が進入路を塞いでしまって入るのに気が引ける分譲地、前面道路が42条3項道路なのに私道持ち分がなくて通行・掘削できるか不安という分譲地がやたらに多いことでした。
最初は漠然と山武市埴谷のような山間部に小屋を建てようと思っていたのですが、アプローチの悪さに辟易として、結局旧匝瑳郡光町(現山武郡横芝光町)屋形の広々とした近くに家がない(でも上水道は来ている)33坪の区画に決めてしまいました。外房の開放感に負けたとも言えます。しかし、実際に見て回るうえでここの記事が大いに参考になりました。ありがとうございました。
さて、気になったのは多くの記事で出てくる「北総」という地名がどこを指すものかです。最も狭義には印旛郡市(成田市、佐倉市、八街市、四街道市、印西市、白井市、冨里市、酒々井町、栄町)の7市2町、最も広義には旧下総国全域のようですが、ここでは旧上総国になる芝山町、旧山武町、旧成東町、東金市なども含んでいる一方、印旛郡市西部の印西市、白井市、栄町、酒々井町は含んでいないように感じました。栄町在勤2年目になる私から見て多少違和感があったのは否めません。ただ、スプロール化の深刻度では北総地域西部はそれほどでもないからでしょうか。
引っ越しなどで大変とは思いますが、今後もぜひ興味深い分譲地を紹介してくださるよう、期待しております。ありがとうございました。
@knorimotoさん
コメントありがとうございます。当ブログを小屋用地取得の参考にしていただいたそうで、大変嬉しい限りです。物珍しさから興味をお持ちになる方が多くて、もちろんそれはそれで一向に構わないし興味本位でも読める記事にしようと心掛けているつもりですが、やはり本来の目的は分譲地の情報提供ですので、お役に立てれば何よりと思います。
ところで、当ブログで多用する「北総」という地域名称は、正直に申しますと、旧国名と照らして正確に定義しているものではなく、一般的にリゾート地を連想されやすい房総半島南部の「南房総」に対して、リゾートや別荘地のイメージが希薄で移住先として名が挙がることが少ない、明治時代の旧開墾地が広範に広がる千葉県北部を便宜上「北総」と書いております。大雑把でいい加減な表記かもしれませんが、他にしっくりくる地域名もなかったので使用しておりました。
ですので、本来ならば「北総」は印西なども含めたエリアを指すのでしょうが、ご指摘の通り、印西や栄、酒々井などは、純然たる宅地利用が実現した住宅団地が主で、空港周辺自治体のような、投機ばかりが先行し、今なお数多くの売地を抱えた分譲地がほとんどないので調査が及んでおりません。
ということで、少々いい加減な点も多々ある当ブログでありますが、末永くどうぞよろしくお願いいたします。
普通に地元で草
うp主様の元住居の近くのダイソーとかよく行ってます。
八街市内まで行けば大体の物は買えるけど少し外れると何もない所ですよね
車がないと生活できなーい
>>地元民さん
こんにちは。コメントありがとうございます。
僕などは他所から来たものですから、この、少し外れれば何もない環境がむしろ気に入って暮らしていましたが、確かにそれは、車があって初めて成り立つ生活ですね。朝日なら、自転車でもなんとかなるかもしれませんが、やはり暮らしは格段に大変になると思います。
ちなみに今住んでいるところは、もう車がなければどうにもなりません。
こんにちは。
八街市のリアルタイム検索から来ました。このようなブログがあったとは驚きです。
小生、まさに八街市朝日が地元で、今は印西市民ですが、15年前まではセブンイレブンのすぐ近くに住んでました。(梅の里です)
子供の頃は、八街も発展途上で、ダイナム/カスミがある場所にはジャスコができるとか、八街病院がある場所には東邦病院がくるとか、色んな話があったと記憶してます。
ちなみに、ジャスコは、駅前商店街が反対して一度は流れ、めぐりめぐって文違に、東邦病院が開業医の反対で佐倉にいったと聞いてます。
また朝日も30年くらい前は家族家庭が大変多く、親子会などの活動も盛んでしたが、高校生くらいからだんだん人が出ていくようになったのかなと思います。
(八街中学校は、八街北中ができるまで、1学年あたり9クラス、2年生はプレハブ校舎というくらい、子供が多かったです!)
住んでる当時は何も思いませんでしたが、朝日からは八街東小や八中も遠く、実家はあるものの、また住みたいとは思いませんし、もし住んだら、子供がかわいそうだなと思ってしまうくらいです。
子供のころから計画されていた八街バイパスが、未だに中途半端ですから、その程度の自治体でしかないです。
でも、地元なので、再度発展する可能性があるのなら、少しは期待したいです。
横から失礼しました。
わたしも幼少時にup主様の住われていたところにほど近い場所で、85年頃から90年代前半まで住んでいました。他の方のコメントにあるように当時はこうした小規模開発の宅地に住む核家族世帯が多く、長い下校路も友人と林の中に分け入って探検したり、建築中の建売住宅に侵入して怒られたり、農家の広い敷地で遊ばせてもらったり、楽しい思い出もたくさんありました。いつか家が建つであろうと思われていた塩漬けの空き地が遊び場となり、子供の視点だけで言えばスプロール開発による中途半端な開発状態が適度に自然の中でのびのびと育つ環境としては良いものをもたらしていた面もあると思います。
大人になって思うと都内への通勤の長さ、上下水道未整備、未舗装道路、整地時に伐採した樹木を埋めたことによる地盤沈下の発生など、このあたりの限界ニュータウンに共通する不満は多かったことが理解できます。未舗装道路だけは役所への陳情し、少しずつ舗装路となりましたが、根本的な環境改善になることなく、私たちの家族は別の町へと引っ越しを決断しました。
先日八街市内の別の地区で下校児童が巻き込まれる痛ましい交通事故がありましたが、朝日区も直線道路が多く信号が少ないからなのかスピードを出しやすく、交通安全事故が多い印象でした。15年ほど経ち再訪した際は歩道が整備されていました。現在住われている方、特に子供たちが安全に生活できるように改善がすることを願います。
八街市朝日に住んでいるものです。
ブログを拝見し、八街の現状を本当によく伝えてくださっていえると感じました。
八街市はまさに「ザ・スプロール」という町ですね。
昨年朝陽小学校の通学路で起きた痛ましい事故は、無秩序な開発が一因だと思っています。
通学路含む生活導線と産業用の導線が重複している箇所が多く、インフラが追い付かないのでしょうね。
区画整理とまでは言いませんが、運送業者を数ヵ所に集約してもらいたいです。
住宅の他にも、産業、ダイバーシティ、教育、交通などなど問題が山積みで、言いたいことはたくさんあります。
本数が少ないとはいえ、東京までのアクセスがそれほど悪くない点、千葉、成田、東金、茂原に囲まれ交通の要衝になりうる点、テレワークなどでのセカンドハウス需要の増加など、可能性がある町だと思っています。
コメントありがとうございます。
昨年の通学路の事故は本当に無惨なものでしたね。千葉日報も、八街の無秩序な都市開発が、住民の生活空間に大型車が入り込む事態を招いたと指摘していました。
八街は地盤が強く土砂崩れや洪水とも無縁で、砂埃が嫌われますが、逆に言えば、問題となる自然災害が砂埃程度しかないということでもあり、決してポテンシャルは低くないと個人的には考えています。現状は、あまりにもったいない使い方をしているんですよね。
今でこそ八街を転出してしまいましたが、妻の勤務先が八街市内ということもあり訪問する機会も多く、八街は親しみのある町です。
八街市朝日には会社の先輩がバブルのピークたしか平成二年でマイホームを買ったのですが、土地33坪4LDK80平米家屋が4000万円超えで、莫大なローンだけが残り苦労されてました。都内に勤めていたのですか、通勤二時間以上掛かり、ローンがものすごく残っていて、メンタルがやられてましたね。
あの時代の被害者はエンドユーザーにもいっぱいいましたけど、目の前にいると慰めようもなかったですね。