現在の旧大洋村の不動産市場における中古住宅の大半は、旧所有者が別荘として建築した注文住宅である。築数年程度の築浅のものから、古いものでも築30年程度で、主要な顧客層が高齢者であるためか、現状でそのまますぐ入居できるよう、ある程度の補修・リフォームが施されたうえで販売されているものが多い。
その一方で、徐々に数を減らしつつあるのが、大洋村の開発初期に、開発業者によって土地とセットで建売で販売されていた「ミニ別荘」である。これは元々の築年が古いうえ、その材質も粗末で住宅としての性能も低く、購入者の利用頻度が下がるにつれて腐朽も進み、再利用が難しくなって放置されていたり、また既に当初のミニ別荘は取り壊され、新たに建て替えられているケースも多いためだ。元々は、サラリーマンでも購入できる別荘として盛んに販売されたものであるが、当初の取得者も今は高齢となり、開発当初とは利用者層も様変わりしている。
80年代に大洋村で建売別荘を分譲していた「サニーランド」(倒産)が放映していたテレビコマーシャル。都市部のサラリーマンをターゲットにしていたことが伺える。
これらのミニ別荘は、たとえ現在も利用可能な状態で維持されていたとしても、査定額は文字通りゼロであり、地元の仲介業者が旧所有者から無償で引き取ったうえで、現状のまま、あるいは最低限の手直しを加えて、多少の手間賃を上乗せして、その業者自身が売主となって再度市場に放出している。大洋村における「格安物件」として紹介されるのはほとんどがこの手の建売ミニ別荘で、その価格は数十万円から高くても200万円ほどであるが、供給数自体が減っていることもあり、実はこの手の物件が一番動きが早かったりする。
僕も毎日のように大洋村の物件をチェックしていて、時折ミニ別荘の格安物件を発見することもあるが、ほとんどの場合は僅か数日でその広告は消えてしまう。既にお伝えしたように、僕も先日、そんな建売のミニ別荘を、物件を発見した当日のうちに購入を決断して取得したが、実際今の大洋村では、100万円以下の格安物件を取得するには、最初から購入の意思を固めて問い合わせるくらいのスピード感を持って動かないと、同じように格安物件の登場を待つ他の購入希望者に先を越されて間に合わない(選り好みが出来るようなランクの物件ではない)。物件サイトの問い合わせメールを送る程度では、返信すらもらえないこともある。
とは言っても、いまだ大洋村には膨大な数の初期のミニ別荘が取り残されているし、現在もなおその建売別荘を利用し続ける方も少なくないため、今後もしばらくは、初期の建売別荘が格安で放出される機会は続くと思われる。ではその「ミニ別荘」は、具体的に一体どんな材質で、どんな造りで建てられているのか。今回は『旧鹿島郡大洋村における「ミニ別荘」の現況と今後』において、大洋村の別荘開発が「持続性がない」ことの最大の根拠として挙げられているそのミニ別荘の模様を、やはり開発初期の建売物件である我が家の古別荘を例に挙げ紹介していきたい。開発業者によってミニ別荘の造りは多少異なるが、見てる限り、基本的な工法や材質はどのミニ別荘もおおむね同じと思われる。
①立地と周辺環境
立地は言うまでもなく物件によって千差万別だが、我が家の場合、鹿島臨海鉄道の大洋駅や旧大洋村の中心部からは遠く、最寄り駅は一駅隣の鹿島灘駅になる。大洋村は鹿島灘の波打ち際から急に海抜が高くなる台地の地形で津波リスクも少ないため、海岸付近にも無数の別荘地が存在するが、我が家はその海も近くなく(と言っても車で10分程度)、山林の傾斜地を造成したひな壇の最下段に位置する。
70年代後半~80年代初頭にかけて開発・分譲された別荘地は、まだ鹿島臨海鉄道の開通前ということもあってか、駅からも、市街地からも離れた山林や畑の中に位置するものが多く、これが今日において初期の別荘地が大きく価格を下げている理由のひとつでもある。我が家も、別荘地内は舗装されているが、そこに至るまでの市道は今なお未舗装で、車一台がようやく通れる程度の狭隘路の先に位置している。
丘陵上の斜面に造成されたひな壇の最下段ということで、我が家の古別荘は、かつての谷戸の位置にある。率直に言って、谷戸というのは宅地としてとても適しているとは言えず、僕も過去にこのブログで谷戸の宅地を選ぶリスクを述べた記憶もあるが、いざ自分が買うとなれば、その価格に釣られて谷戸を選んでしまう自分が情けない。最下段のため道路よりも低い位置に宅地があるので、敷地内へは階段を利用する。
ところがこの階段が、特に鉄骨やコンクリートで構築されたものではなく、単に土を均して作られたものであるため、長年の風雨で削り取られ、内見時には、ほとんど足を掛ける場所もない単なる崖になっていて危険だったので、仕方なく土嚢袋などを使って簡易的な階段を拵えた。
余談になるが、残置物の処分を行っている際、売主の、その前の所有者の方(2000年に物件取得)が記していた日記帳が見つかり、そこには別荘の取得時や利用時の感想が、「悪くない」という単語を多用して、ムクムクと湧き上がる失望や後悔を自己暗示で抑え込むかのようにノート1冊分ビッシリと書き込まれていたのだが、そのノートには、ブロックを積み上げた階段の建設プランがイラスト付きで綿密に書き込まれていた。しかし、現実にはその階段は存在せず崖のままであったところを見ると、あいにく机上のプランだけで終了したようである。
確かに道路との高低差がある宅地は不便だが、一方で周囲は雑木林に囲まれ隠れ家のような雰囲気もあり、これはこれで悪くない。
ところでこのひな壇別荘地の最下段には、我が家の他に、我が家とまったく同じ造りのミニ別荘が数棟並んでいる。我が家の古別荘は、この別荘地内ではもっとも床面積の小さい、おそらく最安値の物件だが、最安値の物件は、やはり土地も一番どうしようもない最下段に建て、おそらく販売価格をギリギリに抑えたうえで、そしてその価格だけを「Aタイプロッヂ 330万円より」といったように、いわば囮物件的に広告に打ち出していたのだろう。なお、現在はこの最下段の建売ミニ別荘は、我が家を除きすべて放置され廃屋と化している。
②外構・外壁材
初期の建売ミニ別荘は、ほとんど例外なく外壁材にパーティクルボード(圧縮ボード)を使用している。パーティクルボードとは木片を加熱圧縮させてつくられた合板の一種で、建材の他に家具としても利用されているが、家屋の場合、普通は内装で使われる建材であり、耐水性に劣るパーティクルボードが住宅の外壁材として利用される例は、大洋村や千葉の一部のB級別荘地を除いてほとんど見られない。
(追記:読者の方より情報を頂き、この別荘地の開発当時は、この手のパーティクルボードが外壁材として販売されており、他の建築現場でも使われているケースはあったそうです)
大洋村で別荘開発が始まった70年代後半は、現在主流のサイディング外壁材はほとんど利用されておらず、一般の民家の外壁にはもっぱらモルタルやトタン材が利用されていた。窯業系サイディング材が登場し、家屋が急にカラフルになるのはバブル期以降のことである。しかし、手間の掛かるモルタルはともかく、トタンすら使わずパーティクルボードなどを利用したのは、コスト面の他に、トタンではあまりにも物置やバラックのイメージが強く別荘にはそぐわないと判断されたためだろう。
確かにトタンよりパーティクルボードの方が断熱性に優れてはいるのだが、前述のように耐水性に劣る材質のため、新築から数十年が経過し長年風雨にさらされたミニ別荘は、そのほとんどが既にボードの耐用限度を超えており、特に水回り付近が激しく腐朽したものが多い。現在もなお当時のミニ別荘を保有する利用者は、その都度傷みの進んだ個所を補修したり、外壁を別のものに交換したりしている方がほとんどだ。
ミニ別荘の工法は今で言うツーバイフォー建築に近く、在来工法と異なり柱の他に壁でも建物を支えている構造なので、壁の強度は建物の命運そのものを左右する。パーティクルボードが完全に朽ちてしまった廃屋は、すでに崩落に近い状態まで歪んでいるものもある。
屋根は、これまたミニ別荘は、ほとんど共通して瓦棒葺きである。現在は、立平棒葺きという、よりコストパフォーマンスに優れた工法が生み出されているので今はまず見かけなくなった屋根であるが、当時はこの瓦棒葺きが最も安価な屋根の工法であった。しかし大洋村の別荘は、見た目ばかりを重視してメンテナンス性が後回しにされた複雑な形状の屋根も少なくないのだが、幸い我が家の古別荘は、その中でも最もシンプルな片流れの屋根である。
軒天や鼻隠しの傷みが激しく崩れているところもあるので早急な対処が必要だが、残置物の中に屋根用の塗料の使い残しや刷毛・ローラーなどもあったことから、屋根自体の塗り替えは行われていたようだ。
【次記事へ続く】
コメント
もし(比較的)丈夫な階段(土留め)が必要でしたら、こちらの記事がお役に立つかもしれないです(^^)
土嚢袋にセメントと砂利を詰めて土留に
http://nbkbooks.com/?p=9177
>>ぽんはせさん
コメントありがとうございます。
階段は、土留めで作るか、足場用の単管パイプと階段で作るかまだ決めていないのですが、どちらでやるにせよ真夏の作業は過酷なので、ちょっと涼しくなってからですかね…。予算的に、どちらがリーズナブルかもう少し調べてみます。ありがとうございます!