我が家がある横芝光町の賃貸物件は近頃賃料が高いうえ、正直言って魅力的な物件もないので、今日も人の住まない荒れた分譲地の踏査を行ってきた。空き地にコンテナを置けばとりあえず風雨はしのげるが、無住の分譲地は電柱や水道がないところが多く、居宅を構えるのに苦労が伴う。
僕は先日、動画の企画で自宅の庭に井戸を掘ったのだが、湧き出た水は塩分交じりの金気水で、到底生活用水に使える代物ではなかった。電柱の設置も、申請してから長く待たされるのが通例である。
僕の家から車で5分もかからないところに総区画数11区画の小さなミニ分譲地がある。廃墟と化した物置や貨車が置いてあるほかは家屋もなく、いくつかの区画に草刈り業者の看板が立つのみで、どの区画もまったく使われていない。
あまりに何もないのでこれまで特に調査も行っていなかったが、とりあえずなぜか電柱はあるし、どうやら水道管も前面道路まで延ばされているようなので、他の放棄分譲地と比較すれば条件は恵まれている。ここにコンテナを置いてとりあえず寝泊まりし、町営住宅の募集を待とうかとも考えている。
2014年に撮影されたストリートビューの画像を見る限りでは、比較的すっきりした印象なのだが、いざ現地に来てみればやはり相当に荒れ果てており、物置はすでに朽ち果て、単なる巨大なゴミと化していた。路上にも、冷蔵庫などの不法投棄ゴミが散乱し、すでに大木が生えている。土地整備の企画を続けるにはうってつけの条件だが、今から再生事業を行うことに社会的同意が得られるのか、はなはだ疑問になる荒れっぷりだ。
これでも役場で調べると、この荒れた私道は1項3号道路として認定されており、ここは家屋の建築が可能である。この、建築基準法上の道路認定の基準が、何度調べてもよくわからない。
旧匝瑳郡光町には、このような無住の放棄分譲地が無数にある。その手の分譲地の中にはもちろん、建築基準法で定める道路に接道していないために家屋の建築ができないところも数多くあるのだが、それら建築不可の放棄分譲地と、今日訪問した建築可能な放棄分譲地の間に、何か明確な差があるようには思えない。
その土地が建築可能か否かは、土地の資産性というか、旧光町で言えば土地の処分を行う上で命運を分ける決定的な要素の一つのはずで、それがこのような、どう考えても統一した基準のないあいまいな判断で決められていたら、建築が認められなかった分譲地の地主はたまったものではないだろう。
見ているだけではこれ以上得られる情報もなさそうだったので、役場で取得した地番図を元に、草刈業者が入っていない放棄区画の所有者を調べることにした。地番図を一目見ただけでも、区画によって面積には大きな違いがあるのはすぐにわかるのだが、いざ登記簿を見てみると、驚くべきことに、最も狭い区画はわずか52㎡(17坪)しかないことが判明した。これは都内の宅地に匹敵するレベルの狭さである。交通至便な都会ならともかく、この地の果てのような光町の農村集落の果ての超狭小地を取得して、いったい何に使うつもりだったのだろうか。
しかもそのうちの1区画は、東京・池袋の「ダイエー観光株式会社」という開発業者の名義のまま放置されている。ダイエー観光という会社は、この外房、九十九里浜において、80年代にかけて膨大な数に及ぶ分譲地の乱開発を繰り返していた開発業者の一つであり、当時の新聞の縮刷版を調べていると頻繁にその社名を目にする。
もちろん現在は解散していて会社は影も形もないが、私道や公園用地などの共用施設ならともかく、区画の一つが、おそらく売れ残りの形で当時の開発業者の名義のまま放置されている事例は極めて珍しい。通例この手の投機型分譲地は完売しているのが普通だからだ。いかに不便な光町の僻地の分譲地であろうと、開発・造成さえすれば(時にはしていなくても)必ず完売する。だからこそ当時は歯止めの利かない乱開発が繰り返されていたのである。
しかしそれでもさすがに17坪という非常識なまでの狭小地では、いかに土地ブームの当時にあってもすべて売り切るのは難しかったのだろうか。あいにくこの分譲地の新聞広告はまだ見つけていないが、登記簿の記載内容からおおよその開発時期はわかるので、今度図書館に行ってこの分譲地の広告を探してみたい。
ダイエー観光の名義の土地はその1区画のみで、他はすべて販売されて別の所有者の手に渡っている模様である。しかし、共有名義となっている私道の登記を見ても、最も新しい登記の内容は2011年に行われた遺贈による持分移転登記で、この分譲地内では、10年以上所有権の動きがみられないようである。
果たしてどこまで連絡が取れるのか未知数であるが、とりあえず、周辺に家屋がなく、なおかつ電柱と水道が来ているというのは、放棄分譲地としてはなかなかの好条件であるので、ここは引き続き調査を進めていきたいと考えている。
なお、分譲地の南東に墓地があるのは不問に付すものとする。
所在地:横芝光町木戸9821番地先
コメント
色々なことが起こり大変な中、Twitter もほぼ閉鎖され心配しておりましたが、ブログの更新で近況を知ることができ、ホッとしております
今後どういった形になっていくかは分かりませんが、無理せず吉川さんのペースで進めてご活動を続けていただければと思います
活動が急拡大した際、変な輩も増えて大変だったと思いますが、それ以上に吉川さんを静かに見守り、機会があればお手伝いしたいという方も増えていると感じます。微力ではありますが、手伝いが必要な際は、ブログでお声がけをしていただければ、そういった方も(自分も含めて)力を貸してくれるかと思いますので、遠慮なく声をあげていただければと思います
季節の変わり目で、体調的にも精神的にも不安定になりやすい季節ですがご自愛ください
ありがとうございます。
こんな無茶苦茶な展開で、おそらく多くの人が僕の発信物から離れていくだろうなとは思っているのですが、そうおっしゃっていただけると少し気が休まります。
色々やってみたいことはまだまだあったのですが、まずは生活を戻さなくてはなりません。
気長にお待ちいただければ幸いです。
いつも夫婦で楽しく拝読、YouTubeを拝見しております。私の実家付近のネタである事と、実家の家業と私の現職が不動産業であることから興味深く、また懐かしさもあり楽しませて頂いておる次第です。
今回は2回目のコメントですがぜひお読み頂きたく書き込み致しました。
動画公開で相当ご苦労されていらっしゃるご様子なのと、ご転居も含めてYouTubeを手仕舞いされるように読み取れましたので大変心配しております。
一旦ご転居される先として私所有の松尾駅至近のアパートがずっと空き部屋となっておりますので仮住まいの部屋として無料でご提供致したく思います。応援したいという気持ちのみで条件はありませんのでぜひご連絡お待ちしております。
激しいブログの更新
楽しいです!
好きな事を単純に楽しくやるのとは違い それが仕事となると
お金の事や考える事が たくさん増えて ストレスも増えますよね。
今、仕事で匝瑳の飯倉に通ってます。 道中は山武や横芝の
吉川さんの記事に載ってる 分譲地も掠めて。
ナビの地図の何も無いところに
区画された一画を発見すると
ぐるっと廻って見ちゃいます。
吉川さんの影響ですね(^_^;)
負担のならない範囲で
頑張って下さいませ。
でも、生活もあるからね。
言葉で言うのは簡単だけど
大変ですよね…。
ありがとうございます。
このブログを趣味で運営していたころが、今となっては懐かしい日々になってきてしまいました。
新鮮さがあったという違いがありますが、毎日のように分譲地を見て回って、そこに住むビジョンを思い浮かべていた日々が、もう戻ってこないのは寂しいです。
地番図、登記簿、写真等を見るに廃屋の物置が建っている場所が開発業者名義の土地のように見えますが…
登記簿によると分筆されたのが1986(S61)年10月で開発業者に名義移転したのが翌1987年3月、そして過去の航空写真を見てみましたが1986年6月では分譲地全体が未開発の完全な更地ですが次の1992年1月写真では開発済分譲地中に既に物置と貨車が見られます。
開発後数年以内に物置は建てられたようですが、開発業者が売れ残った自分の土地に建てたのか、誰かが開発業者から土地を借りて建てたのか(業者が貸すか疑問ですが)、あるいは勝手に建ててしまったのか、ちょっと想像が膨らみます。
コメントありがとうございます。
荒れ果てているので奥の区画は近寄るのが困難だったため、確かに僕も判断に迷ったのですが、屋根が抜けた物置と貨車の間に若干の隙間があり、そこが開発業者の区画なのではないかと思いました。
あるいは物置が、開発業者の土地まで越境して建てられているのかもしれません。
閉鎖登記簿も見ないと土地の動きが正確に掴めない部分もあり、もともとダイエー観光は注目していた会社の一つなので、引き続き調査を行いたいと考えています。
返信ありがとうございます。確かに公図では位置関係はともかく大きさはあてにならないですね。
返信頂いたことに調子に乗って地理院航空写真の他にgoogle earthアプリからこの10年程の過去の精細衛星写真を見たり(私道部分との位置関係を見たかった)、貨車と物置の隙間の面積を測ってみたりしました(大きめに測っても40㎡ほどでちょっと足りなそう)が、何も確定的なことはいえないです。あげくに登記情報サービスから地積測量図取ろうとして週末時間外で取得不可エラーが出たところで我に返りました。
陳腐な言葉になってしまいますが、良い新天地が見つかりますようにお祈りしております。
長々とコメントすいません。
私の幼少期は極貧で、私が11歳の時に離婚したアル中親父の借金と暴力に…母子で苦しむ日々でした。4年前に母が末期がんになり、かねてから希望した宗教S脱会が出来ました。その亡き母かつての信仰により幼少期はS新聞しか見たことがなく、そういった奇怪な分譲開発投棄宣伝記事等を、吉川さんの動画にて知ることが出来ました。しかし、匝瑳で17坪とかまさに原野商法ですが…仮に建築許可あっても…すごい細い家しか建てられないのに。あのバブル期ってまさに狂気。実は、親父と母が離婚する前(80年代中頃)、無理に家を建てて(今や…寺○聰ををCM起用の大企業。当時は、手抜き施工で有名某S社施工)…わずか2年も経たずに建てた家から逃げ出した過去がありました。もちろん、当時の家はもう他人の家。そのトラウマからか母の懇願にて折れた私が、24年前に共同名義で現在の年間固定資産税2万程度の35坪程の土地を買い、最近は広告打たなくなった大手A社施工で、前の家より更に片田舎の集落に家を建て、今もローン払って住んでる人間です。だからこそ、吉川さんの問題提起は私にとって共感しかなかったです。
家なんか、母の懇願を断っていたら未だに借家住まいだったと感じます。母の亡き家が結局、私の終の棲家となりそうです。
放棄分譲地の仮コンテナ暮らし…奥様共々体調を崩されませんように。真夏だと、キャンパーにとっても千葉は酷暑で地獄ですからね。
追伸 先日、趣味の城跡めぐりで…一般道で片道5時間かけて(苦笑)埼玉県の鉢形城跡を観に行きましたが、城跡近くの道中にて、二階の部屋が貧弱で狭い奇妙な一軒家が多いエリアを車窓から見ることが出来ました。あれが磯村建設の家なんだと…実際に見て感慨深くなりました。一部は道路沿いからも廃屋となっていました。あんなとこから、池袋まで歩きと電車で通うなんて無理ゲーだなと感じましたね。今も磯村建設の家にいる住民には…寂寥感と無常感が湧きました。
どう考えても統一した基準のないあいまいな判断で決められていたら
…といっても、昭和というのは普通にそういう時代だったからなあ、というのがもうじき50歳になる自分の感想。戦後から成長期にかけて色々なことが整備されていった一方で、捨て置かれたことや忘れ去られたものも無数にあるというだけで、それはその時代の人たちが努力なり配慮なりしてもどうにもならなかったものもあれば、そもそも配慮さえされていなかったものもあるのでしょう。
いずれにしてもそんなものは遡って是非を問うても意味がありません。「時効」という形でそのまま葬られるのが正しい有り様だと思いますよ。今の価値基準で理解しようとすること自体虚しい。
コメントありがとうございます。
僕も熱に、過去の行政の対応についてことさら糾弾するつもりはないのですが、自分の買った土地の道路が建築基準法の道路として認められなかった分譲地の所有者さんは、今もその処分について悩む方もいますので、「時効」で幕を引けないのが悩ましいところです。
YTが終了してしまうのは残念に思いますが、配信をしていく苦悩は、受けてには分からない事なので気になさる事は、私はない様に思っています。ただ映像の情報量の方がテキストよりは伝わり易いので、その点では、私は残念に思います。
昨今、岸田政府が重い腰を上げた、意味のよくわからない異次元の少子化対策より、はるか昔と言ってもバブル期ですから、3〜40年前。
こういった居住実態が無いに等しい投機物件を放置してきた日本政府には、放置され荒れ果てた土地問題の解決を願いたいですが、何よりいい加減な不動産業者の乱開発の責任を私はとるべきだと考えていますき、なにより、土地神話に群がった買い手にも自己責任が欠落していたと思う次第です。
墓地裏手の無住分譲地を開拓。私の親父とまったく同じですね。喧騒から離れて無為自然に生活するにはよい条件かと思います。敷設してから一度も使われていないであろう水道管の老朽化が気になりますが、市水道ですから市が責任を持って対処してくれるので大きな問題にはならないでしょう。研究のことはいったんほっといて、生活基盤の再整備を最優先させてください。
こちらでは久しぶりの書き込みです(╹◡╹)
町営住宅ですか、栗山と小田部にありますね。
いい条件で見つかるとイイですね!
ダイエー観光は以前あった海のこどもの国前に現地案内所がありましたね。
この当時はダイエー観光と中央観光の看板がよく立っていたものです。
ありがとうございます。中央観光の広告も時々見ますね。やっぱり、地元でも名前を見かける会社だったのですね。80年代を通して長年広告を出していた模様です
ダイエー観光株式会社ですが、新たに令和4年に設立されたようですね。住所は豊島区池袋2丁目19番3号、豊島区は住居表示に伴う住所の新旧対照表を公開していないようなのでこの住所が池袋2丁目1113番地と同じ場所なのかはわかりませんが、違ったとしても全く無関係とは考えにくいので、気になります。