北総ではしばしば、市域、町域のはずれに位置する分譲地を見かける。中には、はずれどころかほぼ境界線上にあったり、時には境界線を跨ぎ、同一の団地でありながら区画によって属する自治体が異なるような、住民コミュニティの分断を前提としたフザケた分譲地も存在する。
これは、その分譲地が属する自治体ではなく、より人口・経済規模が大きい隣接の自治体を生活圏として見込んで開発・分譲されて生み出されるものであるが、当然ながらこの手の境界線分譲地で住民登録したところで、隣接の自治体から行政サービスを受けられるわけではなく、単なる辺境の住民になるだけである。人口密度の高い都市部であればまだしも、北総においてはそんな分譲地はいずれも陸の孤島と言わざるを得ないような立地ばかりだ。
特に少子化により学校の統廃合が進んでいる昨今では、このような辺境は小中学校の校区のはずれに位置してしまうケースが多く、また辺境であるがゆえに、公共施設の立地としては不適当で、道路整備の重要性や優先順位も低くなってしまう。今日は北総においても民間のバス路線は多くが不採算のため撤退し、自治体が運営するコミュニティバスも増えているが、同一自治体内で循環する運行ルートが多いコミュニティバスは、辺境部はそのコースからも外れやすいため、往々にして辺境の分譲地は利用率が低く、販売価格も安めのことが多い。
具体的な例を挙げれば、東金市極楽寺(八街市に隣接)、山武市沖渡・横田・大木(八街市に隣接)、八街市沖(千葉市に隣接)などにその手の境界線分譲地が目立つ。
今回紹介する東金市の「桜台団地」も、そんな境界線分譲地と言うか、結論を先に言えばこの団地は、隣接する大網白里市に囲まれた立地に位置する東金市の飛び地であり、最寄り駅こそ東金線の福俵駅(東金市)であるものの、おそらく大網駅の利用を想定して開発されたと思われる住宅団地である。
いずれにしても、どちらの駅へ向かうにせよ、道路事情を見る限り、開発当初でもバス路線が存在したようには思えず、しかし徒歩で駅に向かうとなると少々億劫な立地だが、大網駅は外房線の駅の中でももっともパーク&ライドが定着している駅なので(駅前は駐車場だらけである)、もとより自動車利用を想定した住宅団地であろう。
現在、この桜台団地に隣接した大網白里市側には、伊藤忠商事と新日鉄興和不動産が開発し「みどりが丘(通称「きららのくに」)」と名づけられた大型分譲地が展開されているが、きららのくには90年代末ごろより開発が始まった比較的新しい住宅団地で、今日でも新築住宅の建築が続く現役の分譲地であり、80年代半ばより開発が着手された桜台団地の方が古い。
福俵駅側から桜台団地に向かうには、田んぼの中の道を抜けて行くことになるが、幹線道路でもなく分かりにくいためか、田んぼの途中に手製の案内看板が立てられており、時折団地方面に向かって住民のものと思われる車が走行していく。案内看板の位置からでは団地の模様ははっきり確認することができず、本当にこの田んぼの先に住宅団地があるのかと一瞬不安になるような立地だが、しかし実はこの福俵方面からの入口はまだノーマルな方である。
桜台団地へのもう一つの入口である、先述のきららのくに側からの団地の進入路は、房総半島の中南部でよく見かける、切り通し道路の脇にある。鬱蒼とした未舗装道路の入口に、先の福俵駅側のものと同様の手書き看板があり、それは住宅団地と言うより、遺跡や鍾乳洞の案内看板かと見紛うばかりで、とてもこの先に住宅団地が存在するとは思えない野趣溢れるロケーションである。
話を戻して福俵駅側の入口から団地へ向かうと、団地は周囲の水田と比較して少し小高い丘の上にあることがわかる。高低差がそれほどあるわけでもないが、周囲はそれこそ家屋もほとんどない広大な水田地帯なので、見晴らしはなかなか良い。今回の桜台団地の踏査も、元を辿ればこのロケーションに関心を持って取り組み始めたものだ。
九十九里平野は、古代はその大半は海であったものが、時代が下るとともに海岸線が後退し湿地となり、やがて干拓事業でその湿地が水田として利用されてきたところが多い。しかし、そんな水田の合間の所々に、周囲と比較して若干海抜が高い、元からの陸地部分、つまりかつては島であった小規模な丘陵・低台地が今でも残されている。
既存集落や畑もそのような低台地に展開されているものが多いが、一方で、今となっては何も活用されていない、単なる雑木林として放置されているところも多く、中には分譲地が開発されている低台地もある。この桜台団地もそのような元陸地の分譲地のひとつである。
隣接する旧大網白里町(当時)が1986年に刊行した『大網白里町史』の第一部第二節「縄文時代」の項に、この桜台団地が位置する東金市大字山口、字島ノ越の低台地(桜台団地が開発された台地と同一であるかは現時点では不明)における遺跡発掘の模様が簡単に触れられている。
それによれば、桜台団地の開発よりずっと前、1958年(昭和33年)の両総用水の工事の際に、縄文時代中期~後期のものとみられる土器と貝層(貝塚)が出土したとある。九十九里平野の形成の歴史を紐解く貴重な遺跡であったはずだが、どうやら当時は記録保全の手法に難があり、歴史資料としては不完全な部分も多いらしいのだが、いずれにしても、この九十九里平野に残された小さな低台地に、太古の時代から人が暮らしていたことを裏付ける貴重なものである。先ほど僕は、この桜台団地の看板を、「遺跡」のようだと冗談半分に紹介したが、ここは現に遺跡が存在した地域でもあったのである。
残念ながら今回の記事の執筆にあたり、この「島ノ越遺跡」の具体的な所在地などを調べてみたものの、東金市の生涯学習課に問い合わせてもすでに当時の発掘記録などは残されておらず、また字島ノ越という小字そのものも既に消滅した小字なのか、東金市役所課税課資産税係の職員の方に調べてもらっても、該当の小字を有する地番はなく正確な所在が判明しなかったのだが、東金市大字山口に属する旧島嶼の丘陵部はごく限られているので、事実上、桜台団地の立地と同一視しても差し支えは少ないと思われる。
なお、大網白里市は、市内に博物館や資料館などの施設を有していないため、2018年に、この『大網白里町史』の全文も含めた市内の歴史資料や美術作品などを豊富にアップロードした「デジタル博物館」を開設しているので、興味のある方はぜひどうぞ。
参考リンク:大網白里市デジタル博物館 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/1223905100/
不動産にまつわる俗説として、古来からの居住の形跡が見られる遺跡付近や寺社の周辺は災害も少なく安心、というものがある。実際には、必ずしも一概にはそうとも言えない地域もあるのだが、しかし特に氾濫原などに耕地を展開してきた農村部は、長年の経験から、少しでも冠水リスクの少ない地形を家屋の建築場所として選定していることが多いのもまた事実である。
その点において桜台団地は、利便性はともかく、災害リスクの観点で言えば本来は優良宅地となり得る立地である。ここは海岸からは離れているので元から津波リスクはそこまで高くないが、近隣の南白亀川(なばきがわ)の氾濫による冠水被害も起こり得ず、またこの団地がある丘陵は数十万年前に形成された古い地層であり、地盤も強固である。団地の周辺地域のほとんどが元湿地の軟弱地盤であることを鑑みると、この地域においては、この丘陵こそ住宅建設用地として最も優先的に候補に挙げるべき地勢であるはずだ。
しかしながら実際団地に足を踏み入れて散策してみると、そんな優良宅地としてのポテンシャルを台無しにしてしまうような残念な要素が目に付いてしまう。元々利便性は高くなく開発時期も古いので、未利用区画が多数存在したり、少子化に伴い利用率の減った公園の管理が行き届かなくなっているのはある意味仕方のないことなのだが、ここまでにも紹介してきた、遠景が望める開放的眺望が確保されているのは、実は台地の北側方面のみである。肝心の南側は団地の開発に伴い切り立った崖となり巨大な擁壁が設けられ、その擁壁も既に一世代前の規格のものであり、無用の崩落リスクが新設されている。
この丘陵の南端部分は東金市大字山口ではなく、大網白里市大字大網に属する。桜台団地はすべて大字山口地内に収まっているので、おそらく開発用地買収の際、大網側の取得が難しかったのだと思われるが、だからと言って、このような日照性に劣る区画が発生するような宅地開発を強行してしまうところに、当時の住宅開発の粗雑さを垣間見ることが出来る。
もっとも、眺望性を優先するあまり、擁壁と盛り土を積み上げて、沈下リスクの高いひな壇住宅地を拵えるくらいなら、ここのように眺望や一部の区画の日照性を犠牲にしてでも切り土の宅地にした方が良いのかもしれないが、それにしてもその結果新たに生み出された擁壁はあまりに巨大なもので、いずれ経年による劣化がどのような結果をもたらすか、少し不安になるものである。
そもそもそれ以前の話として、先にも述べたようにこの丘陵は、広大な低湿地の中に残された、太古からの貴重な堆積地層であるのだから、仮に住宅用地として開発するにしても、理想を言えば、とりあえず手っ取り早く取得できた部分だけ場当たり的に開発するのではなく、大網側の地主とも粘り強く交渉したうえで、より計画的な住宅開発を行うべきだったのだ。確かにこの団地の利便性は低いが、否、利便性が低いからこそ、別の付加価値、すなわち強固な地盤と低い災害リスク、そして優れた眺望が保証された住宅地として、近隣の不動産市場において希少性を高める道も残されていたはずなのである。
実際桜台団地は、住所を入力するだけで簡易的な地盤や災害リスクの診断を出してくれる民間業者のサイト「地盤カルテ(https://jibannet.co.jp/karte/)」を利用してみても、その診断結果は、すべての災害リスクが低く抑えられた100点という素晴らしいものだ。
しかしながら現実には、開発業者にそんな先を見据えた発想があったはずもなく、単なる乱開発の産物である辺境分譲地のひとつとして誕生してしまった桜台団地は、2014年撮影のストリートビューの画像でも既に「入居者募集」の張り紙がある、いつ入居者が決まるかもわからない貸家や、何に使えば良いのかもわからない雑種地の売地、はたまた空き家など、そこに広がる光景は限界分譲地の様相そのものである。
2020年10月現在、この桜台団地内で1軒の中古住宅も売りに出されているが、それは築20年の美麗な4LDKが780万円という極めて無慈悲な査定額で、こちらのほうが開発が古いにも関わらず、事実上、きららのくにの衛星団地という位置づけに転落してしまっている。
この団地は、団地内に残された複数の空き区画に「自治会管理地」と記された立札が建てられており、また冒頭でも紹介したように、外部の訪問者にはなかなかわかりにくい進入路を示す手製の案内看板も設置していたりと、住宅団地としての機能性を維持していく意欲が高い団地である。管理が機能しているのは、集中井戸や集中浄化槽の共用設備があるからこそかもしれないが、それにしても、繰り返しになるが強固な地盤の丘陵地の利用方法として、非常に惜しかったと言わざるを得ないものなのだ。
地価狂乱の産物とも言える僻地の住宅団地の開発の時代は既に終焉を迎えており、今改めて、この桜台団地を大掛かりに再開発するような需要や社会的要請は、おそらくもう発生することはないだろう。残された課題は、今あるストックをどのように活用、あるいは整理していくかという点が主眼となろうが、現実には今なお市街地付近に新たな住宅分譲地が形成されているのが実情である。しかし、この桜台団地を見るにつけ、その土地が本来持つポテンシャルをも損なうような場当たり的な開発は、もう終わりにしなくてはならないと僕は考える。それは地域にとっても、一時的には人口増による税収増加につながるのかもしれないが、長い目で見れば、もはや取り返しのつかない喪失につながるかもしれないのだ。
桜台団地へのアクセス
東金市山口
- 東金線福俵駅より徒歩20分
- 外房線大網駅より小湊鐡道バスみどりが丘線 「みどりが丘第四」バス停下車 徒歩15分
コメント
利便性、土地利用の歴史、周辺地域に至るまで詳細に調べられていて感動します。この土地のように安心して家を建てられるポテンシャルがあるのに、複合的に見て残念という例もあるのですね。
いつもながら、大変の読みがいのあるブログをありがとうございます。
>>煮豆さん
コメントありがとうございます。分譲地はあまり歴史のあるものではないので、これまで地勢や史跡に絡めて語ることはなかなか難しかったのですが、やっぱり記事に奥行きが出る気がするので、可能な限りこうした背景も調べて書いて行ければなと考えております。今後ともよろしくお願いいたします!
先日まで西福俵の住宅約10年に住んでおり、先日八街駅近くに引っ越しました。
自分の住んでいる所がどんな場所か調べようと、ひょんな事からこのブログにたどり着きました。
20年くらい前から、色々近隣の物件を探してしたこともあり、北総地帯の分譲地は数多く目にしてきました。
今思えば不可思議な分譲地はこの辺りにたくさんあり、持ち主は東京や首都圏など遠方の名義が多かったことも、腑に落ちない長年の課題でした。
今回このブログをみて今までの胸の澱みがとれて行く思いです。しかし現実は知らなかった方が幸せなのかと思う、日本の負の側面をまざまざと感じているところです。
高度成長期からバブル期よりは、今は住宅を購入し易くなったと思います。
今回の八街の物件も、一昔前では手に入れられなかっただろうと思いますが、住宅や土地が溢れ始めている今は、返って自分の望む住宅が手に入る時代になってきているのかもしれません。
もちろん都市計画を立て整備しながらの再開発を期待しています。
限りある日本の国土が利用価値の高いものへとなりますように。
>>西福俵さん
コメントありがとうございます! そうなんです。日本の現状は、いろいろと先行き不安にさせられる要素が多いですが、こと住まいに関しては、経済大国と呼ばれていた時代よりずっと選択肢が広がり、かつ選びやすくなっていると思います。住まいは生活の根幹ですから、経済がたとえ傾こうとも、住まいは自由に選べる社会であってほしいものです。
団地の端に、集中浄化槽ありますね。
グーグルマップに、集中浄化槽名付けました。
大網白里市、集中浄化槽地域初めて知りました。