当ブログの分譲地調査は、事前にグーグルマップの航空写真を利用して、街路の形状などから予め分譲地と思われる地域を選定し、ストリートビューがあれば現地の模様を下調べしてから訪問することが多いが、これまで訪問した分譲地の中には、航空写真ではいまだ分譲地の様相でも、実際現地に赴いてみると、個人、あるいは企業によって、一旦は複数の所有者に分譲されたはずの旧分譲地がまるごと買い占められ、立ち入りも難しくなってしまっていた所がいくつかあった。
ある所は太陽光パネル基地として利用されていたり、またあるところは旧分譲地の入り口に門扉や鎖が設置されていたりと、利用状況は様々だが、僕としても、既に分譲地としての役割を終えて次の段階に進んでいる土地に深入りする理由はなく、むしろ無駄に細分化された分譲地がこのまま放置されるよりは、何かしらの利用方法で再び単一の不動産となる方が流通性も高まるし、よほどひどい利用方法でなければこれは解決済みの問題と考えて、特に紹介もしてこなかった。
まとめて買収される旧分譲地は、いずれも元々家屋が皆無に近い、事実上の放棄分譲地であったが、いずれにしても、いくら限界分譲地の地価が安いと言っても、区画所有者の皆が皆、今日の取引相場に納得しているわけではないし、一民間人では固定資産税の納税者情報までなかなか追えないので、区画すべてを買い取るとなると、それなりの労力や費用を要するものと思われる。
さて本題に入るが、前回の大洋村訪問では、同行した案内者の方に、前記事で扱った「電柱物件」の他に、特異な状況下にある別の別荘地も併せてご案内いただいた。結論から先に述べると、大洋村飯島字柊平にあるその別荘地は、元々は他の別荘地同様、単に森の中を切り拓いて造成されたなんの変哲もない別荘地だったのが、別荘の利用率が下がるにつれ、未利用区画、未利用家屋が特定の宗教団体によって次々と買い取られ、現在はその団体の活動拠点と化している別荘地である。
都市部から遠く離れた僻地に設けられた宗教活動の拠点と聞くと、我が国においてはどうしても、過去の悲惨な事件が思い起こされてしまうが(注;問題のある記述だとは思うが、これを単なる偏見だと切り捨てられるレベルの事件ではなかったと考えている)、それでも憲法で信教の自由が保証されている以上、その団体の体質如何に関わらず、どこかに必ず宗教団体の活動拠点は設けられるもので、大洋村の別荘地もまた、そうした拠点として白羽の矢が当たったということである。
その別荘地は、大洋村では珍しくもない、森の合間に切り開かれた細い未舗装道路をしばらく進んだ先にある。途中の道には、この先に宗教施設があることを示す案内看板のようなものはなかったが、やがて奥の木々の隙間の先に、祭事で使われる紅白幕が掲げられた別荘地が見えてくる。この時点で普通の別荘地ではない。
別荘地の入り口には「一般社団法人 日本上座仏教修道会 浄心庵精舎」と書かれた看板があり、その左隅に各施設の配置図がある。配置図を見る限り、既に7棟がこの「日本上座仏教修道会」という団体の所有となっているらしく、駐車場まで配備されている。別荘地内の建物は、大洋村でよく見る簡素な建売別荘ではなく、区画によって造りや規模もバラバラなことから、元はそれぞれ当初の区画取得者が注文住宅で建築したと思われるが、配置図に記載されていない建物も、既に住民が暮らす気配はなく、事実上、この修道会がワンブロック丸々活動拠点として利用している模様だ。
別荘地は全部で20区画ほどの小規模なもので、数分も掛からず全て見て回れる程度の規模だが、別荘地内には至るところに紅白幕が下げられ、もはや通常の別荘利用者が入り込む余地はなくなっている。建物にはそれぞれ「法友の家」「メンタルフレンドハウス」「瞑想堂」など、部外者にはその用途もわかりにくい施設名を記した看板が掲げられているが、そのうちのいくつかには、日本語の他にビルマ文字が併記されている。
ただ、目に入るのはあくまで活動用の施設であり、修道会の会員が居住していると思われる居宅は見当たらず、訪問時は人の姿を見かけることもなかった。ここの別荘地の周囲には、一般の所有者の別荘住宅も点在しているのだが、さすがに1画が丸ごと特定の団体の活動拠点となっているためか、ほとんどの別荘は管理も甘く、あまり利用されている気配はなかった。
ちなみに案内者の知人曰く、この別荘地が現在のように宗教施設として転用され始めたのは、まだ数年ほど前のことだそうである。
ところで「日本上座仏教修道会」とはいかなる団体か。一般社団法人とあるということは、宗教法人としての認可は受けていないものと思われるが、その名称からしても、事実上の宗教団体であることには疑いはない。公式サイトによれば、この団体は1989年、日本において上座仏教の教えを広めるために発足した旨の記述がある。指導者は、画像の横断幕にも記されている、ビルマ(ミャンマー)出身のバッダンタニャーヌッタラ大長老、とのことだ。ビルマと言えば敬虔な上座仏教の国である。
その設立年の前年の1988年、ビルマでは、長年の経済低迷の元凶となっていたネ=ウィン元大統領による独裁的な社会主義体制の変革を求めて、大規模な民主化要求運動が発生している。結果としてこの運動は、夥しい死者数を出す苛烈な弾圧を招くことになり、後の軍事政権樹立の引き金を引くものになってしまったのだが、その際、多くのビルマ人が、弾圧を逃れて日本を含めた諸外国に脱出・亡命しており、今でも日本には一定数の在日ビルマ人が暮らしているので、僕は最初は、この団体はそんなビルマ人たちの一種のコミュニティとして機能しているものかと思ったのだが、サイトを見る限りどうもそういうことでもないらしい。指導者の略歴を見てもそんなビルマ情勢を匂わす記述は何もなく、布教の対象はあくまで日本人であるようだ。
まあ、ここでこの団体の活動内容まで詳述しても仕方がないので、当ブログではこれ以上は言及しない。もし興味のある方がいらっしゃれば、連絡先は公式サイトで公開されているので問い合わせていただくとして(文末にリンクがあります)、当ブログとしては、たとえそれが特定の宗教施設であるにせよ、別荘地の新たな活用方法のひとつとして興味深く注目した。
画像を見てもおわかりのように、ここの別荘地は、管理状況はきわめて良い。個人の管理ではないのだし、とりわけ宗教行事の場として使われているのだから当然かもしれないが、それにしてもこれまで紹介してきた他の別荘地と比較すれば、これはもう別荘地としての理想的なあり方と言って良い管理状況である。
大洋村の別荘地というものは、これまで当ブログで紹介してきたような、末期的なまでに荒れ果てたボロボロのものばかりというわけではない。鹿島臨海鉄道の大洋駅周辺や商業施設に近接したエリアは開発時期も遅く、今でも新築家屋の建築も行なわれている現役の別荘地である。その住環境は、別荘らしい小さな建物が目立つ点を除けば一般的な住宅街のそれと変わらない。
しかしこの柊平の別荘地は、森の合間の狭い未舗装道路の突き当りにあり、駅も商業施設も遠い、利便性で言えば最低ランクの別荘地である。瞑想を行うとなれば、このくらいの立地のほうがむしろ都合が良いかもしれないが、村内の同ランクの一般的な別荘地と比較して、法人によるこの適切な管理ぶりを目にしてしまうと、住民個人による住環境の維持が、いかに困難が伴うものか痛感させられる。
だがさすがに、良好な住環境を維持するために宗教団体を立ち上げましょうなどというのはあまりに突拍子もない提案であり、この分譲地をひとつのモデルケースとして扱うのは正直言って非現実的なのだが、宗教団体でなくとも、何かしらの手段によって、分譲地全体を、居住者、あるいは利用者の共有空間として開放し、適切な住環境が維持される道はないものだろうかと、いまだ予算の問題で捨て値の大洋村の別荘地ですらただのひと区画も買えない分際の僕でも考えなくもない。既に荒れ果てた別荘地も多い大洋村だが、地価の安さを考えれば、まだその可能性は僅かだが残されていると思うのだ。
参考サイト:日本上座仏教修道会公式サイト
宗教行事で再利用される別荘地へのアクセス
- 鉾田市飯島字柊平
コメント
更新連日お疲れ様でした。確かにこうして写真で見ますととても手入れが行き届いており、分譲地としてはとても清潔な雰囲気でしたね。山奥なので現世を忘れ瞑想も捗りそうです。
たしかにモデルケースとしては難しいですがこの土地は、放棄されて朽ちていく限界分譲地に対しての一つの回答かもしれませんね。
同じ価値観を持った者達が一つの分譲地を共有する、そうすれば周辺との軋轢も生まないですし、何より同胞同士の交流が円滑に進み更なる発展が期待されます。宗教に限らず「ペット好きが集まる分譲地」「釣り好きが集まる分譲地」などなど、実現への過程は未知数ですが大洋村の更なる変貌を期待します。
コメントありがとうございます!
宗教団体と聞くとどうしても身が固くなってしまうところもありますが、別荘地として見た場合、こんな立地なのにすごくキレイですよね。
大洋村は、僕の住む北総と違って、空き家が多く残されているところが、逆に強みになるところもあると思います。更地に1から建物を建てるとなると大仕事ですが、既にある建物、それも別荘のような、造りも簡素で小さな建物であれば、活用のハードルは低いのではと考えています。
別荘地の住民のコミュニティについては、現在鉾田市の自治会についても資料を請求しているので、また別の機会で考察しようと考えています。
普段のニュータウン記事も好きですが、今回は別の意味で面白い取材記事でした。
古今東西を問わず求道的な宗教団体は「田舎に自分たちだけのコミュニティを作る」のが大好きですよね……
通常の開発分譲地や別荘地、あるいは伝統的な市街地や村落でも、維持管理がうまくいっているのは町内会や自治会といった「同質集団のコミュニティ」がうまく機能しているところでしょうし
「コミュニティ」から逃れる(人嫌いが気ままなスローライフを送る)には崩壊した分譲地というのは一種の選択肢なのかもしれませんね……?
>>はるたさん
コメントありがとうございます。
仰る通りで、皆が皆、共同で地域を管理する濃密なコミュニティを欲しているわけではなく、特に別荘地を選ぶ方はよりその傾向が強いと思われるのですが、別荘はともかく限界ニュータウンは、今もなお、望んでその環境に身を置いたのではなく、そこ以外に選択の余地がなかった世代の方が大勢住まわれています。
荒れたら荒れたで、必ずそこには世捨て人傾向の方や安さに惹かれて来る人がいるもので、なかなか一筋縄では行きませんから、今後も管理を維持するところはする、そうでないところはそれなりに自己責任で(その代わりご自由に)、という感じで、ある種の住み分けを進めていくのもひとつの方向かなと思っています。
こんにちは。限界分譲地の新たな利用法ですね。でもこういった人目に付かない場所で仮想敵国がアジトを作っていたらと思うとオウムの例もありますので危険なものを感じます。
>>SU-100さん
コメントありがとうございます。
本文でも少し触れましたが、どうしても日本では、とんでもない前例があったゆえに、否が応でも連想してしまいますよね……。大洋村は農家も多く、上九一色村ほどの僻地ではありませんが、全国には他にも別荘地は沢山ありますから、妙な使い方をされる例も充分考えられますね。
森の中の小道を抜けた先にこんな場所があるなんて、隠れ里みたいですね。
ワクワク感を感じると同時に、人目に付きにくいのがまた宗教施設がある場所としては不安な気持ちにもさせられるところです。
宗教団体に限らず、ロケ地でもサバゲーでも宿泊複合施設の場所でも、こうなると団体が利用するには面白そうな立地だなと感じますね。
自身の伯母夫婦が入信している仏教系の宗教団体も、千葉に広大な敷地を持っていて(学生の頃に何度か行かされた)、その中に色々と合宿や行事のための施設が存在しているのですが、やはり宗教法人のそういった行事で使われる土地というのは面積が大きく確保されているものなのだなと。
ああいった所は独特の雰囲気がありましたが、もしかするとそういった俗世間から断絶した場所という雰囲気を少しでも持たせたくて、この様な場所を選んだのかな?とも思いました。
まあ元からあった建物を利用しているせいで、内の景観は俗世間っぽくなってしまうのは仕方ないのかも知れませんけど、その分の費用が少ないメリットもあるでしょうし、法人の規模によってはこれも一つの知恵なのでしょうね。
2年前に持っている賃貸物件に、とある一般社団法人の宗教団体が社宅にということで申し込んできた。
その団体名をyoutubeで調べたら、自分の理解を超えた動画を出していたのでお断りしました。
こちらの記事を読んで、そういえばあの団体はどうしているんだろうと思いネットで調べたら
代表者が犯罪を犯して解散手続き中となっていた。
つくづく貸さなくてよかったと思いました。