放棄住宅地というものはこのブログでもこれまでいくつか紹介してきている。このブログは昨年の12月に開設したものなので、以前から訪問していた一部の住宅地を除き基本的に草木も枯れる冬場に調査を行っていて、それが画像の寒々しさを一層際立たせているわけであるが、放棄住宅地はそんな真冬であるにもかかわらず藪や雑草に覆われ、辛うじて造成の痕跡が見られるものがほとんどである。おそらく、夏場は草木の繁茂がすさまじく、そこが造成地であることは画像では確認できなくなってしまうのではないだろうか。
さて成田市の北部、旧下総町エリアの小野地区にも、また一つ放棄住宅地がある。成田線の滑河駅からおよそ3㎞ほどの立地であるが、住宅地の周辺は古くからの農村集落と言うか、むしろ集落の一画を造成して作られたような分譲地だ。その分譲地に囲まれるように、一軒の農家住宅がある。規模の小さいミニ分譲地は別として、100区画以上はある比較的大掛かりな70年代の分譲地は、投機が主目的ということもあって、最初の取得費用を抑えるためか、既存の集落とは離れた山林を切り開いていることが多く、こうした農村集落に隣接した分譲地というのは少ない。
あくまで俗なイメージで語ってしまうが、旧来の農村の地主は、たとえ山林であっても先祖から受け継いだ守るべき財産であるという意識が強い、という印象がある。市街化とはおよそ縁のない北総の小さな社会である農村集落の真隣に、突然分譲地の開発が開始された当時の地域住民の中には、心中穏やかではない方もいたのではないだろうか。だが幸いと言うか生憎と言うか、結局分譲地は実際に宅地利用されることもないまま、元の山林に戻ろうとしている。
古い農村だけあって集落内の道路の幅員が狭く、自動車でのアクセス性が良くないこの分譲地の進入路は、入り口付近から早速巨大な擁壁が現れ、「分譲地殺し」の異名を付けたくなる、後出しじゃんけん的な規制条例である「がけ条例」が早くも脳裏をかすめ始める。周囲は完全に、主に竹が群生した雑木林と化しているが、街路上にも竹は既に群生している。画像を見てお分かりの通り、この分譲地を訪問したのは関東でもかなりの積雪があった日の少し後で、いまだ雪が残されていたために路盤の状況がよくわからなかったのだが、雪のない個所を歩いた感じでは舗装されているような踏み心地はなかった。
擁壁は当時の水準としてはそれなりに堅牢に作られており、現役の古い分譲地と比較しても遜色ない構造であると思うが(それでもがけ条例には抵触すると思う)、しかし何本かの竹は、そんな擁壁をも突き破って地上に顔を出してしまっている。
改めて語るまでもないかもしれないが、竹というものはとにかく広く横に根を張る強靭な植物で、その生命力はすさまじく、単に地上部分を伐採するだけではそれこそ賽の河原の石積みに等しい。一旦竹が群生してしまった土地は、その根の除却に膨大な手間と費用を要することになる。農村部の、竹林に隣接した廃屋などでは、床下から生えた竹が床と天井を突き破っていることもあり、竹というものはまったくもって手に負えない厄介なものである。
タケノコは取れるし、竿や垣根などの使い道もあり、竹槍も作れるとは言え(どこで使う気だ)、人間が必要とする分だけ都合よく生えてくれるような植物ではないので、これから田舎の土地や家屋を利用して生活を開始する方には、どうしてもそのロケーションが気に入り伐採費用も惜しまないというのなら別として、特にこだわりもないのなら近隣に竹林がない土地を選ぶことを強くお勧めしたいが、それはこの画像をご覧になれば納得いただけると思う。
一部の擁壁は、竹の根に押されて生じたのだろうか、すさまじい亀裂が見られる。もしかしたら2011年の東日本大震災で、ここの擁壁にもある程度のダメージはあったのかもしれないが、分譲地内のどこにも地震で崩落しているような擁壁はなかったので、やはりこの亀裂は竹の根によって破壊された可能性が高く、場合によっては地震で更に亀裂が生じたと思われる。擁壁でさえこのように破壊されるのだから、自宅の基礎が竹によって突き破られても何ら不思議はない。
購入予定の土地の近くに竹林があり、しかもその土地が所有者不明であったりしようもならもはやお手上げだ。以前、ある古民家物件の売広告で「近くに竹林があるのでタケノコが取れます」などと謳っているものを見かけたことがあるが、くれぐれもこんな無責任な売り文句に踊らされないよう気を付けたいものである。特に地価の安い北総では、数百本もの竹が群生した土地など、例えタダで入手しても、おそらく更地が買えるくらいの除却費用が掛かるはずだ。
さて分譲地の街路上は地上部のみ伐採された竹も見られ、誰かしらが時折足を踏み入れている形跡は見られるものの、例によって不法投棄が目立つ。しかし奥に進むにつれて、次第にそんな街路上にも樹木が目立ち始め、立ち入るのが困難になってくる。擁壁がなければ街路と宅地の区別がつく状態ではなく、一面雑木林の様相だ。
これまで訪問した放棄住宅地も、雑草や笹の繁茂はすさまじかったが、ここはもう完全に雑木林の状態まで還っており、やがて竹によって擁壁も破壊されただの瓦礫となり、原野に還っていくことであろう。遠い未来になって、後世の人たちがこの元分譲地に足を踏み入れた際、なぜここの雑木林だけ巨大な岩石が転がるのか、不思議に思うかもしれない。
分譲地はひな壇上の宅地で、いくつかの宅地は階段が設けられているが、その階段の勾配が一目見て非常に急なので、試しに上ってみたところ、踏面の幅は僕の足のサイズよりも狭く、上りづらいことこの上ない。身長171㎝の僕でもバランスを崩しそうなのだから、これは幼い子供や老人などは容易に登れないのではなかろうか。昔の日本家屋などでも階段は異様に急なものはあるので、当時はこれでも普通だったのかもしれないが、仮にこの分譲地が造成当初から宅地として利用されていたら、おそらく購入者は老後に後悔していたに違いない。
そしてそんな階段にも、雑木がコンクリートを突き破って生えてしまっている。それにしても、いくらこの分譲地が人の住まない放棄住宅地であるからといって、擁壁のコンクリートはこんないとも簡単に雑木や竹によって破壊されてしまうものなのだろうか。ここは別に古代の遺跡でも何でもなく、せいぜい数十年前の造成地であり、言うまでもなく同時代に造成された宅地が日本全国で今でも現役の住宅地として利用されている。
であるならば、現在も居住者が多くいる古い分譲地では同様の問題が頻発しても良さそうなものだが、僕が知らないだけで、擁壁上の宅地の所有者は、雑木による破壊に頭を悩ませているのが普通なのだろうか。
擁壁上の宅地も、街路と同じく雑木が生い茂る状況で、そして宅地の背後には、さらに巨大な擁壁がそびえ立っていた。がけ条例というものは宅地下の高低差だけでなく、こうした宅地背後の崖に対しても厳しい建築制限を設けており、他の記事でもがけ条例の概要は述べているので詳細は割愛するが、現状では、ここの分譲地の宅地は、この背後の擁壁を一から造り直さない限り、建築可能なスペースはただの1㎜も残されていない。
がけ条例の施行がこの分譲地の放棄の要因となったのかはわからないが、擁壁の崩落状況を見ても、もはやこの分譲地が再利用されることはないだろう。ロケーションを考えても、この分譲地は、このまま自然に還すのが最も得策であると、僕も思う。ただひとつ問題となるのは、いつも指摘しているように、小間切れにされた登記情報をどうするのか、という点だろう。
さて小野集落は、北総の丘陵地の最北部に位置する。この小野地区からさらに北上すれば、やがて丘陵を下り、利根川沿いの田園地帯へと至る。利根川の対岸は茨城県の稲敷市。聞けば、茨城県も千葉と同様に、実需が満たされなかった分譲地が数多くあるらしいのだが、残念ながら現時点では、茨城県側まで調査する余裕がない。
このブログは個人ブログであり、僕は別に物書きを生業としているわけでもないし、調査費用が潤沢にあるわけでもない。そして何より、当初は北総の分譲地の調査を終えたら、成東、九十九里、松尾、横芝、旭といった東総方面、そして大網を経て、スプロール都市の最終形態とも言える茂原市(そのスプロール化の激しさは県下随一である)を調べていく予定だったのだが、あまりに分譲地の数が多すぎていまだ北総すら調査を終えておらず、全く手が回らない状態だ。賽の河原の石積みを続けているのは、実はほかならぬ僕自身なのかもしれない。
更新が遅れて申し訳ないけれど、どうか気長にお待ちいただければと思います。
竹林に破壊される放棄住宅地へのアクセス
成田市小野
- 圏央道下総インターより車で6分
- 成田線滑河駅より成田市コミュニティバス「しもふさ循環ルート」 「冬父入口」バス停下車 徒歩5分
コメント
興味深く拝見しております。
こちら場所はまるで中央の敷地が本丸の石垣に守られた山城のようですね。
気になったので『地図・空中写真閲覧サービス』の航空写真を確認してみたのですが、1962年の写真からからこのお宅はあるようですが、周りは森と畑で造成されておらず、75年では造成完了?、89年荒れ地、現在、と一切建物が在った様子はなく奇妙としか言いようがなく、なんだか不安になっただけでした。誰かは儲かったんでしょうけど…
特に75年のカラー写真が印象的です。
@ふるそまさん
こんにちは。お読みいただきありがとうございます。
当ブログでもいくつか紹介してきたのですが、こうした分譲地丸ごと、一切利用されていない造成地は北総にいくつかあり、より区画数の少ない小規模なものであれば各地に散在しています。中には、近年になって住宅地として再利用されたところもあるのですが、おそらく分譲時の分筆・登記方法に問題があり、それが後に足かせとなって取引を阻んできたケースもあるのではないかと推察しています。まあそれ以前に、住宅地を造る立地ではないと言ってしまえばそれまでですが、それは今なお現役の住宅地にも同じことが言えるので…。
僕も国土地理院の航空写真を確認しましたが、89年の時点でもう住宅地として利用するには一定の復旧費用が掛かりそうな状況ですね。バブル期の住宅建設は接道要件を無視して強行されたものも少なくなく、その時代で既に放棄が始まっていたというのは、何か別の要因がありそうです。
旧下総町の分譲地の調査はそろそろ一通り完了する頃なので、今後、各分譲地の歴史を個別に掘り下げていく試みも面白いのではないかと考えております。今後ともよろしくお願いいたします。