【番外編】野崎島の話

小値賀町

 2022年1月16日から19日にかけて、長崎県の五島列島の小値賀島(おぢかじま・長崎県北松浦郡小値賀町)と野崎島を訪問した。僕は10年ほど前に、同地域を含めた五島列島を旅行したことがあったのだが、当時、旅行中に撮影した写真はHDDの故障によりすべて失われており記録は何も残っていなかった。そのため、とりわけ野崎島は僕がもっとも再訪を強く願っていた場所のひとつであった。

 当時は住民が離村した廃集落の風景に惹かれて訪問したのだが、あれから10年、僕が目にしたはずの廃屋の多くは、おそらく潮風や嵐によって老朽化が進み崩落したのか、グーグルマップで集落跡の上空写真を見ても、建物らしき屋根はほとんど見当たらなくなっていた。

 2018年には、野崎島にある旧野首教会及び集落跡がユネスコの世界文化遺産に登録され、野崎島に関する情報は以前より飛躍的に増加したが、世界遺産に登録されようとも、朽ち果てた廃屋の崩落はもはや止めようもない。我が家がある九十九里から野崎島まで足を運ぶのは、日程的にも、また費用面においても結構な決断が必要であったが、すべて朽ち果て風化する前にもう一度その光景を目に焼き付け、併せて写真記録も留めようと決心し、今回、10年ぶりの再訪となった。

 そうは言っても、今回は特に五島のキリシタンの歴史をたどる現地踏査というような大それたものではなく、あくまで単なる観光旅行に過ぎない。廃村といっても、野崎島がたどった歴史は当ブログの趣旨とは何の関係もなく、本来はこのブログで書くような話でもないのだが、僕は他に運営しているブログもないし、自分用の備忘録として野崎島の話をまとめようと思う。すでに各メディアでも多く取り上げられている場所なので目新しさのある話題ではありませんが、もしご興味があればお読みいただけると嬉しいです。

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 野崎島への渡航は、小値賀町が運行している町営の渡船「はまゆう」を利用する。「はまゆう」は野崎島の他に、町内の別の有人島である大島や六島(むしま)と、佐世保や博多行きのフェリーや高速船が就航している小値賀本島を結んでいる。小値賀本島の笛吹地区にある船着き場から出港した「はまゆう」は、まずは野崎島の北東に位置する六島に寄港するが、2021年3月時点での住民基本台帳に基づく六島の住民登録者数はなんと1人。2010年時点での国勢調査では、23人の人口を数えていた六島も、その後10年で激減し、今はほぼ無人の島と化してしまっている。

町営船「はまゆう」。

 今回の目的地である野崎島も、台帳上の住民登録者数は1人である。一般的には無人島として知られる野崎島だが、町が発行するパンフレットは「ほぼ無人の島」と表記しており、野崎島が無人島であるとは明記していない。渡船の運航に充てられている助成金は、渡航先が無人島では申請が認められないため、野崎島内の観光施設の管理や旅行者の受け入れを行うNPO法人「おぢかアイランドツーリズム協会」の会長が、航路確保のために住民登録を行っている。元からの野崎島の住民は、2001年、島の北端にある沖の神嶋(こうじま)神社の神官家が離村したのを最後に無人となった。

 小値賀町は長年にわたって人口減に悩まされ続けている過疎市町村のひとつだ。人口のピークは1950年(昭和25年)の10,968人で、その後は第二次ベビーブームや日本の高度成長期においても、その恩恵を享受する機会もなく、町の人口減が止まることはなかった。令和2年度時点の町人口は2291人まで落ち込み、もはやピーク時の4分の1を下回っている。

 住民の離村後、長く放置されていた旧野首教会は、1985年に小値賀町が修復し現在の姿に蘇らせているが、これも歯止めが利かない人口減を何とか食い止めようと、教会施設の観光地化に舵を切ったものであろう。近年では小値賀町は移住者の呼び込みに熱心で、その甲斐あって近年は都市部からの移住者が微増しているそうだ。本記事執筆現在、小値賀町の空き家バンクに登録されている物件は、売却価格ではなく賃料が0円になっており、いかに町が移入者の呼び込みに腐心しているか伺える。

 町営船が接岸する野崎港には、来島者のための案内施設であるビジターセンターが建てられており、そのすぐ真裏に、今や完全に瓦礫の山と化した野崎集落跡がある。おぢかアイランドツーリズム協会の職員の方によれば、ここ数年の間にも、集落内の廃屋のいくつかが台風や大雨によって崩落・倒壊してしまい、集落跡の光景は大きく様変わりしてしまっているそうだ。このあまりの荒廃の早さこそ、まさに島の暮らしの厳しさそのものである。

野崎港。港周辺にある建物はビジターセンターを除き、すべて倒壊寸前の廃屋である。

 集落を歩いてみても、今やどこも瓦や木材、酒瓶や甕の破片などの生活用品の残骸が散乱しているばかりで、原型をとどめているのは建物の基礎や石垣のみであり、その光景からかつての村の営みを想像するのは難しい。集落内で、島内に400頭ほど生息しているといわれる鹿の姿を見かけることも珍しくなく、今や野崎島は鹿の島と化している。元々は生息していなかったが、10年ほど前に隣の中通島から渡ってきて繁殖したと思われる猪の姿を見かけることもあるらしい。

野崎集落跡。

 集落の風景が急速に失われつつある一方で、前述した最後の島民である神官家の住宅は、現在は修復工事が施されて一般公開されていて、有人島であった時代の暮らしぶりを偲ぶことができる。今でこそ潜伏キリシタンの島として広く知られるようになった野崎島だが、元々は島の北端にある沖の神嶋神社が、遣唐使の時代から長く航路の守り神として崇められてきた古い聖地であり、神官家のある野崎集落も、すべて沖の神嶋神社の氏子で形成された神道の集落であった。

 野崎島がキリシタンの潜伏先として選定されたのも、あえて神道の聖地である沖の神嶋神社の氏子に偽装することによって、幕府の厳しい取締りをかい潜る目的があったのではと言われている。沖の神嶋神社は今も、神石と讃えられる王位石(おえいし)とともに島の北端に鎮座しているが、そこに至る山道も荒れ、本格的なトレッキング装備と相応の体力がなければ到達は難しい。

沖の神嶋神社の神官家の元住居。現在は一般公開されている。

 野崎港から、旧野首教会のある野首集落跡までは、徒歩でおよそ20分。野崎島は、野崎集落の北側に比較的平坦な地形が広がるほかはどこも険しい地形で、野首集落跡までの道はかなりの急峻な坂道だ。その途中に、コンクリート造りの平屋の廃墟がある。今回の旅行の宿泊先である野崎島自然学塾村は、1985年に閉校した旧野崎小・中学校の木造校舎を転用したものだが、これはその野崎小・中学校に赴任した教職員のための宿舎跡だ。閉校後もしばらくは宿泊所として利用されていたらしいが、今は窓ガラスも割れ、吹きすさぶ潮風によって室内も荒れ放題である。

教職員宿舎跡。

 通勤困難なへき地学校の教職員宿舎は、ある意味では過疎地の非効率性の象徴のようなものだ。僅か数名~数十名程度の生徒のために、ひとつの学校設備を維持し、そこで教鞭をとる教職員の住戸まで確保しなくてはならない。こんなブログを書いている僕でさえ、その非効率性を考えれば、過疎地の衰退・消滅は必然のもののように思えてくる。

 高度成長期前後に過疎化が著しく進行し、その後無住となった集落は、現代の限界集落で見られるような住民の高齢化による自然消滅ではなく、集団移住や集落移転事業など、住民や地域社会の能動的な決断によるものも少なくない。それはつまり、住民自身がその非効率性を見限ったという事であり、もはやよほどの天変地異でもない限りこの地に再び人が暮らすことはもうないだろう。

 山腹に築かれた野首集落跡への道の最上部に差し掛かると、眼下に野首海岸の青い海が見えてくる。それはどんな形容をもって表現しても陳腐にならざるを得ない、絵に描いたようなエメラルドグリーンの海である。僕の自宅も海岸から近いので海は見慣れているが、砂鉄の多い九十九里浜は砂も海も黒ずんでいてこのような光景は見られない。ちなみに明治維新後、新たに一般庶民が苗字を名乗ることになった際、寺社由来の苗字がなかった野首集落のキリシタン系住民は、この野首海岸の白い砂浜を由来とした「白浜」姓を名乗る方が多かったそうである。

野首集落跡への道。

野首海岸。

 その先さらに進むと、野首集落跡の段々畑と、その中腹に旧野首教会が見えてくる。教会の下には、前述の野崎島自然学塾村がある。野崎集落はまだ一部に廃屋が残され、家屋の残骸が散乱している状態であるが、旧野首集落に至っては、もはやそこに建物があった痕跡はほとんど見られず、ただひな壇状に石垣が残されているのみである。

 野首集落と、島内のもう一つのキリシタン集落であった、島南端に位置する舟森集落は、ともに19世紀半ば頃に外海方面から逃れてきた潜伏キリシタンが定住し形成されたものだが、集落としての歴史は僅か100年強ほどしかない。明治初期に五島全域で吹き荒れた苛烈なキリシタン弾圧の迫害にも耐え、貧しいながらも費用を捻出して教会を建立し、変わらぬ信仰を支えに島の暮らしを続けてきた両集落の住民であったが、すでに身を隠す必要もなくなっていた戦後の高度成長期においては、あまりに拡大しすぎた都市部との生活水準の格差を目の当たりにして、もはや島の生活を続ける動機を失ってしまったのか、舟森集落は1966年、野首集落は1971年、住民の集団移転によって無住となった。

野首集落跡。

 野首集落の集団移転後、放置されて荒れ果てていた旧野首教会は後に町に寄贈され、修復工事が行われたのは前述の通りだが、絶えず潮風にさらされるこの地で、築100年を超える建造物を維持するのは相当な苦労があるに違いない。

 僕が10年前に訪れたときは、まだ教会内部の立ち入りも撮影も可能であったが、今回再訪してみると、教会の扉こそ開放してくれたが、天井が一部崩落しているとのことで内部への立ち入りは制限されており、また建物内部の写真撮影も禁止とのことであった。

 撮影禁止の理由は詳しくは聞かなかったが、以前内部の撮影を巡って何らかのトラブルがあったらしく、その後は教育委員会の指示によって撮影が制限されてしまったらしい。観光客の受け入れを行うおぢかアイランドツーリズム協会としては、出来ればいずれは撮影を可能にしてもらいたいとのことであった。

 

旧野首教会。1908年竣工。

 崩落した天井については、現在はその修復方法について検討中とのことであった。教会建築の名工とたたえられた鉄川与助の「作品」でもある野首教会を、今日、誰に修復を依頼するかが問題となっているらしい。元々町が管理していた教会が、現在はNPO法人が管理を委託されていることからも察せられるように、85年当時と異なり、現在の町には、観光施設に多額の予算を投じる余裕も失われているのかもしれない。

 野崎島が世界文化遺産に登録されて以降は、観光客の数も大幅に増加し、立地の特殊性もあってかコロナ禍においても訪問客が途切れることはなかったと聞く。だが野崎島には、そんな訪問客から多額の観光収入を得られるような収益施設はなにもない。渡船にせよ宿泊施設にせよ、その利用料金はさして高いものではなく、教会を含めた無人島ひとつを管理しきれるほどの収益があるとはとても思えない。

 世界文化遺産への登録は名誉なことであり、僕も野崎島はその価値を充分備え持っているとは思うが、世界遺産の登録というものは、それ自体が何らかの経済的恩恵をもたらすものではなく、その名誉を生かすも殺すも当該地域の舵取り次第である。住民自らがその生産性を見限って離脱した「世界遺産」の管理を、全国水準と比較しても財政基盤がきわめて脆弱な小値賀町がすべて担うというのは、それはあまりに重責に過ぎる話ではないかという気もする。

 教会はもはや改めて語るまでもない美しさだ。透き通るような青い大海原を望む高台に建つ煉瓦造りの教会を、貧しい信徒が身を削るような倹約に耐えながら、一度の滞納もなく建築費用を捻出して建立したエピソードは、特に信心深いわけでもない僕でさえ、信仰というものが持つ力に感服せざるを得ない。

 ところがそんな教会の敷地の傍らに、この静かで穏やかな教会とは不釣り合いな「大東亞戰爭記念」の碑文が彫られた小さな石碑が残されている。裏には「昭和十六年十二月八日 野首部落會」とあり、読んで字の如く太平洋戦争の開戦を記念した石碑らしい。しかし、国運を賭けた世紀の決戦を祝う記念碑としては、その石碑はあまりに貧相で精巧さもない粗雑な仕上がりで、開戦当初の高揚感を感じ取ることもできない奇妙なものだ。

 明治初頭の弾圧の時代を経て、キリスト教の禁教令の高札が下ろされた後も、戦前の日本は信教の自由が完全に認められたわけではなく、あくまで国教である神道を脅かすことのない範囲での活動に限定されていた。国体に背くものと見做された新興宗教は容赦ない弾圧が加えられ、時には治安維持法まで適用されて壊滅させられている。

 迫害の記憶がまだ生々しい当時のキリシタン住民は、おそらく国策に従う意思表示としてこの石碑を建立し、異教徒としてあらぬ疑いをかけられ弾圧される危険性を回避したものと思われる。果たして開戦日当日に素早く建立出来たものであるかも疑わしい代物だが、石碑には当然のように開戦の日付が刻まれ、その無条件の賛同がなんとも哀しい。しかし、当時の日本の国情を考えれば、これは決して責められるものではない。終戦後、広くその存在を周知されていたわけでもないこの小さな石碑を撤去し、闇に葬ることも当然可能であったはずだが、それをせず戦後も保存し、その記憶を後世に伝えたのは住民の誠意であろう。

 ところで、そんな島全体が潜伏キリシタンの歴史を今に伝える稀有な遺産である野崎島であるが、島の玄関口である野崎港の他に、野崎島にはもうひとつの港が存在する。野首港はちょうど野崎港の反対側、島の西側に築かれた比較的新しい港だが、旧野首教会から野首方面へ足を向けると、明らかに人工的に造成された平坦地に工事用のバックホーが停め置かれているのが目に入り、その先には野崎ダムがある。このダムは、起伏が少なくダムに適した用地がない小値賀本島の農業用水を確保するための灌漑用ダムであり、海底のパイプラインを通じて小値賀本島の耕地に給水されている。

 そのダムを超えた先に野崎港のふ頭があるのだが、ダムにせよ、またふ頭にせよ、こちらはキリシタンの歴史とは全く無関係な、歴史的情緒も感じることができない現代的な土木建築物そのものであり、言葉は悪いが、その光景を見て興醒めしてしまう訪問客もいるのではないかと心配になってしまうものだ。かつては野首港周辺にも人家は存在していたらしいのだが、こちらはもはや石垣すら残されておらず集落の痕跡は何もない。

野崎ダム。

野首港。

野首港近くにある野崎ダムの案内板。

 その点に関しては町側も配慮はしているようで、本来であれば野首港の方が小値賀本島から近く、また観光の目玉である旧野首教会や野崎島自然学塾村も、野崎港よりも野首港からの方が近く道路も良好である。しかし、潜伏キリシタンの歴史遺産を謳う島に上陸して、最初に目に入るのが灌漑ダムではあまりにイメージを損なうと考えたのか、町営船は大回りして西の野崎港に接岸し、旅客の受け入れを行うビジターセンターも野崎港前に設けられている。野首港を発着する定期連絡船は存在せず、野首港はあくまで、チャーター船の接岸や工事用車両や重機などの運搬に利用されるものだ。野首港周辺にはダムの解説板はあるが、観光客向けに島内のキリシタン遺跡を案内するものはない。

 野崎ダムは世界文化遺産の登録時点ですでに竣工しているので、世界遺産登録後に建築した橋梁が、景観を損なうものとしてユネスコに問題視され、最終的に登録が抹消されたドレスデン(ドイツ)の例とは異なり、ダムの存在が世界遺産にそぐわないものとして問題視されることはないだろうが、やはりあまりその存在を大々的にアピールはしたくないらしい。観光案内所などで配布されている野崎島関連のパンフレットには、もちろん野崎ダムについて詳細な解説を載せているものはなく、地図にダムの所在が書かれていないものすらある。

 しかし、野崎ダムは小値賀町の産業を支える重要なインフラ施設である。そもそも長崎県としては、野崎島の管理で最重視しているのは、教会でもなければキリシタン集落跡でもなく、この野崎ダムであろう。むしろ野崎ダムがあるからこそ、今は住民が皆無となった事実上の「無人島」である野崎島において、今なお電力網が維持され、一定水準の道路整備が可能になっているのかもしれない。

 もともと野崎島は、全体的に起伏が少なく山林のない小値賀本島の町民が、燃料としての薪を確保するための場所として機能してきた。時は流れ、今は薪に代わって、急峻な地形を利用した農業用水の供給源としての活用に切り替わっただけで、野崎島は島内に住民がいなくなった今なお、小値賀本島の住民にとっては生活空間の一部なのだ。

 ダムの光景だけ見れば、確かにそこから潜伏キリシタンの歴史に思いを馳せるのは難しいかもしれないが、むしろ無住となった後もダムとして利用される程度の位置関係にある島に、美しい教会と静かな集落跡、息をのむような青い海が残されていたことが、僕のような観光客にとって幸運なことであったのだと思う。北の沖の神嶋神社や南の舟森集落跡に足を運ぶのでなければ、訪問にあたって特別な装備も必要なく、ほんの20分程度の渡航で、現在の日常風景とは隔絶された潜伏キリシタンの歴史の片鱗を体感することができる。10年にわたって、どうして僕が野崎島への再訪を強く願っていたか、その理由が少しでも伝われば幸いである。とは言ってもまあ、そんなに堅苦しく考えなくても、釣り竿一本、海パン一枚持って渡るだけでも十分楽しめる島なのではないかと思う。

 さて、島内に残されたもう一つのキリシタン集落跡である舟森集落跡に関してだが、残念ながら今回も、訪問が叶う事はなかった。舟森集落跡までは狭い山道をおよそ90分かけて歩かねばたどり着くことが出来ず、その道も一部荒れていて危険な個所もあるため、今はガイドを付けず来島者のみでの訪問は遠慮してもらっているとのことだ。僕たちはガイドも予約していなかったし、何よりトレッキングに適した装備を持ち合わせていなかったので諦めざるを得なかった。

 野崎島から小値賀本島に向かう帰路の渡船は南回りで、船窓から舟森集落跡を遠目に見ることができる。会場から見る舟森集落跡の段々畑は、畑と言うよりほとんど崖にしか見えない。離村から半世紀以上経過しているとは言え、よくもこんなところで暮らしていたものだ。舟森集落の始まりは、大村においてキリスト教信仰が発覚して処刑目前にあった二人の信徒を、気の毒に思った小値賀の商人がひそかに連れ帰って住まわせたのが発端であると言われており、それ自体は商人の善意によるものだが、異教徒であるというだけの理由で、このような場所でしか生き延びることが出来なかったというのは、それはまさに迫害と呼ぶしかないものだと思わざるを得ないロケーションである。

船窓から見た舟森集落跡。(写真中央)

 畑の中に、白い十字架が一本立てられているのが見えた。かつて教会堂があった場所の傍らに立てられた十字架だ。船は次第に集落から離れ、遠く離れていく小さな十字架を目で追いながら、僕はこの先、今度はあの十字架の前に立たなかったことを長く悔やむ日が続くのではないのかという気がした。

【参考資料】

『パライソの島』竹山和昭著・風詠社 

『廃村をゆく』イカロス出版

『野崎島の集落跡 ガイドマップ』 企画・発行/長崎県・熊本県・佐世保市・平戸市・五島市・南島原市・小値賀町・新上五島町・天草市

『小値賀諸島の文化的景観』 長崎県小値賀町教育委員会

『信仰の証を訪ねて』 小値賀町産業振興課

『長崎新聞』2021年2月15日

コメント

  1. naoyanootera より:

    こちらのブログは時々拝見しております。
    今回とても良い記事で思わずコメントいたしました。
    今後も投稿楽しみにしております。

    • 吉川祐介 吉川祐介 より:

      ありがとうございます! ブログ本来の趣旨とは異なる記事ですが、野崎島についてはどうしても一つの記事に仕上げたかったので公開することにしました。今後ともよろしくお願いいたします。

  2. h_i より:

    お初にお目にかかります。
    廃棄別荘地に強い関心を持つ一人として、いつも記事を興味深く拝読しております。
    今回の記事は本来の趣旨とは異なれども、訪問地の光景および心象を、いつものとおり平易ながらも格調高い言葉を選んで表現する姿には敬服いたしました。
    特に、最後の行は、そのときの心情が儚くも美しく表現されていることに感動したことをお伝えいたしたく、思わず文をしたためました。
    引き続き記事にお目にかかれることを愉しみにお待ちしております。
    拙文お目汚し失礼いたしました。

    • 吉川祐介 吉川祐介 より:

      ありがとうございます。いつもは好き勝手なことを言っているこのブログですが、野崎島は、本当に単なる観光客、闖入者として訪問しただけで、僕にできることなど知れていますから、その魅力を充分伝えられるようにとの思いで書きました。これから先、誰かが野崎島へ行くきっかけの一つになれば嬉しいですね。

  3. ひろみ より:

    たまたまこのブログに辿り着きました。とてもしみじみしました。自分にできることがないかしら、という思いで胸が一杯になりました。

  4. さんぴんざむらい より:

    吉川さんのブログで一番最初に辿り着いたのはこちらの記事です。私の母方本家は小値賀島の前の黒島にあり、現在も半農半漁で暮らしています。野崎は海水浴で良く行っていました。黒島から漁船に伝馬船を曳航して、沖に漁船をアンカーして、伝馬船で上陸して、真水の滝をシャワーや冷蔵庫代わりにして、半日遊びました。そんな野崎島に吉川さんが来てくれていたので嬉しく思っています。カツオ漁が盛んですが、時期によっては、も雑魚捕りで男女群島まで出かけていました。今でも親戚はいるのですが、徐々に縁遠くなり、こちらのブログで状況が良くわかりました。他にも色々あるのですが、公開コメントなので差し控えておきます。

    • 吉川祐介 吉川祐介 より:

      ありがとうございます。

      野崎島は、今から10数年前に一度行って強い感銘を受け、必ず再訪したいと考えていた島の一つでした。
      この時、正直言ってそんな旅行をしているほど余裕があったわけでもないのですが、本も仕上がった頃で、長い間どこにも行けていなかったので思い切って旅行したところです。

      また行きたいなとは思うのですが、野崎島は千葉から行くにはあまりに遠く、僕一人ならともかく、妻と行くとなると他の別の場所を選択せざるを得ないのかもしれません。それでも舟森は今も行きたいのです。

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