IMG_20210822_131350
 富里市の南東部、成田空港からはほぼ真南の、芝山町との境界付近に「両国」と呼ばれる地域がある。「両国」とは読んで字の如く、この地が旧国名である下総国(印旛郡)と上総国(武射郡)の国境付近に位置したことに由来するものだが、今日においても両国地域は富里市の中でも辺境に位置しており、東関東自動車道のインターチェンジがあり発展著しい市北西部と比較して、両国周辺は今なお開拓時代からの広大な農地が残る農村地帯である。

 そんな両国には、かつて軽便鉄道(成田鉄道八街線)の鉄道駅「富里駅」が存在していた時代がある。現在の富里市には鉄道駅が存在せず、町の玄関口は高速インターの近くに位置する富里バスターミナルがその役割を担っているが、市街地から遠く離れたこの両国の地が、富里の玄関口だった時代もあったのである。既に成田~多古間の運行を開始していた成田鉄道の八街線開業は1914年(大正3年)。当時の陸軍の鉄道連隊が演習時に敷設した線路を、そのまま再利用する形で開業したものだ。
IMG_20210611_144352
軽便鉄道(成田鉄道)多古・八街線の路線図。(軽便鉄道を考える会in富里作製)
冨里駅
出征兵士の見送りで賑わう富里駅。(1935年(昭和10年)頃?撮影・伊藤勲氏蔵)

 後の第二次世界大戦における戦況の悪化による資材不足のため、1944年(昭和19年)、八街線の線路資材は別路線へ移設されることなった。運行休止から77年の歳月が経過した今、かつての富里駅付近には、鉄道の遺構は何も残されていない。しかし、両国の町並みは、辛うじてここが村の玄関口であった名残を今なお留めており、旧富里駅跡地は、現在は公民館と、地元バス会社である千葉交通の「両国四つ角」停留所が設置されている。
P1050267
P1050272
富里市の両国地域(大字は十倉)。閉業した商店が多いが、かつてこの地が村の玄関口であった名残を辛うじて今に残す。
P1050269
旧富里駅跡。現在は公民館と、千葉交通バスの「両国四つ角」停留所となっている。

 ところでその「両国四つ角」停留所を見ていると、ひとつの奇妙な点に気が付く。現在、この両国四つ角停留所を通過する千葉交通の「久能両国線」は、京成成田駅を発地とするもので、両国四つ角は、終点である「南小学校」停留所(一部の便は芝山町の「ハニワ台車庫」行き)の、僅か3つ手前の停留所である。

 ところが、上に掲載した屋根付きの立派な待合所は、終点方面に向かう車線側の停留所のものであり、京成成田駅行きのバスの利用者が待つことになる反対車線は、ただ歩道上に簡素なベンチが置かれただけの屋根もない停留所である。

 つまり、利用客などあるはずもない終点間際の停留所に、屋根付きの立派な待合所が設置されているわけなのだが、これは元々この「両国四つ角」停留所が、成田方面ではなく、今は廃止となった八街駅行きのバス路線の利用を想定して設置されたものであるために、このような逆転現象が起きてしまっているのだ。
P1050276
P1050275
終点間際でありながら、立派な待合所が設置された「両国四つ角」停留所。八街行きのバス路線が廃止となった今、ここでバスを待つ乗客は存在しない。

 国際空港の開港によって、成田市を中心とした経済圏が確立した今日とは異なり、かつては印旛郡南部の経済の中心は八街駅周辺であった。僕の前職にいた富里出身の同僚によれば、まだ富里村の時代であった幼少期は、何かまとまった買い物と言えば八街で、母親とともに富里から八街までバスに揺られて赴いていたそうである。

 開港によって成田周辺が劇的に発展するにつれて、相対的に八街の商業地としての地位は低下することになり、八街駅発着のバス路線網の多くは減少・廃止となり、八街駅周辺には往時の賑わいはもはやない。現在の富里市民の多くは、自家用車を利用して成田方面へ買い物に向かうのが一般的である。富里という町は、その時代ごとの社会情勢によって、単に交通機関だけでなく、人の流れそのものまで大きく変貌を遂げてきた、まさに時代に翻弄された町であると言えよう。
IMG_20210822_140457
IMG_20210822_140419
両国四つ角より八街駅方面に向かう県道沿いに今も残るかつてのバス待合所の残骸。この待合所も八街方面の車線側に残るものだが、両国-八街間を結ぶバス路線網は今は存在しない。


 さて、そんな両国四つ角から更に南方向、先述のバス路線の終点である富里南小学校より東に1キロほど進んだ先に、今回紹介する「両国南団地」がある。団地の入り口近くに1軒のコンビニエンスストアがあるほかは、農地や雑木林があるだけの辺境にある古い団地だが、この団地もまた、成田空港の開港に伴う開発ブームを見込んで販売された住宅団地のひとつであり、当時の開発業者である東京・新宿区の「五宝不動産株式会社」は、その販売広告を盛んに新聞に掲載していた。
IMG_20210822_132212
両国南団地。
五宝団地2 19710403
五宝団地1 19710410五宝団地4 19710424
五宝団地3 19710530
1971年(昭和46年)4月~5月にかけて、盛んに掲載されていた両国南団地の新聞紙面広告。(1枚目より順に、1971年4月3日、4月10日、4月24日、5月30日付の読売新聞より)

 分譲開始は1971年。「新国際都市の住宅専用地」と銘打たれた両国南団地は、当初は「成田五宝団地」の名称で販売されていたようだ。所在地はもちろん富里村(当時)であるが、常設の現地案内所を京成成田駅前に設置し、しかもこのように短期間の間に続けざまに新聞広告を打ち出すなど、北総の分譲地としては異例とも言えるほど大掛かりな宣伝を行って販売された模様である。

 広告は複数種類用意されているが、いずれも空港の開港決定と同時期に建設計画が打ち出された新交通網の利便性の高さを誇っている。「しばらくお待ちになれば空港乗り入れの交通網を100%ご利用できます」と自信満々に記載されたその交通手段は以下のものだ。

・東関東自動車道高速道路-本年末開通予定(都内40分の予定)
・京成電鉄延長線-明年4月営業開始予定
・成田通勤新幹線-建設決定(東京駅30分予定)
・北千葉空港線高速道路-工事中(都内20分台予定)
・西船橋~空港間-通勤モノレール建設決定

 言うまでもなく、このうち実現したのは上2つの東関道の開通と京成線の延長のみであり、下3つは開港から44年が経過した今もなお実現していない幻の建設計画だ。ただし成田新幹線は、その予定線の一部が現在の成田スカイアクセス線として転用されている。終点は上野なので東京駅までの到達はかなわなかったが、その速達性は充分及第点と言えるものだ。

 「北千葉空港線高速道路」というのは、現在成田市から千葉ニュータウンを経て鎌ヶ谷まで伸びる北千葉道路のことを指すのであろうか。仮に北千葉道路が都内まで延伸していたとしても、いくらなんでも成田空港から都内まで車で20分というのは危険運転にもほどがある。

 「西船橋~空港間」の通勤モノレール案に至っては、そもそもこの区間は前述の成田新幹線の予定区間であり、今は建設計画そのものが完全に現代史の藻屑へと消えて忘れ去られているが、それ以前の問題として両国南団地は、空港を発着点とした交通網を存分に使える立地条件と言えるのだろうか。
IMG_20210822_132124
 3枚目の広告には「ご心配には及びません 空港に近くとも騒音区域を外れた静かな住宅地です」とあり、その記述自体は偽りではないのだが、つまりそれは言葉を変えれば「言うほど空港から近くない」ことに他ならない。この団地から空港までの距離は京成成田駅までの距離とほとんど変わらず、都内まで通勤するのであれば、わざわざ都心方面とは逆方向の空港へ向かう理由がない。

 その京成成田駅行きのバスに至っても、今は減便に減便が繰り返され、団地前に設置された「南団地」停留所を通過するバスは、もはや1日に僅か3便しかない。この両国南団地(と言うより、富里市内全域)と、成田空港を直接結ぶ路線バスなどの公共交通機関は存在せず、空港までのアクセスは自家用車に限られるが、空港内の時間貸し駐車場は料金が高くパーク・アンド・ライドには不向きである。100%の交通網を利用できるどころか、現在はほぼ0に近いところまで公共交通が壊滅しているのが現状だ。
IMG_20210822_125447
IMG_20210822_125501
団地前に設置された「南団地」停留所。京成成田行きのバスは今や1日3本しか運行されていない。 

 広告が誇る交通利便性を期待して取得した方にとっては悪夢のような衰退ぶりである。しかし、この結果を以て、当時の開発業者の販売姿勢を指弾するのもあまり賢明ではないと思う。そもそもそれは結果論に過ぎないし、たとえどれほど優秀な専門家であろうと、50年後の社会情勢をすべて正確に予測できる者などいるはずもない。当時としては、まさか今日、これほどまで不動産の価格が下がり、資産どころか場合によってはどうにもならないお荷物にまで変わり果ててしまう未来など、当の販売業者側も到底予測できなかったのではないだろうか。

 結果を知る者が今見れば無残なものであるが、しかしその一方で、結局実現することもなかった夢のような未来予想図を、疑いもなく堂々と広告に記載出来たその感覚が、今見れば少し羨ましく見えてしまう面は、確かにある。昨今の不動産市場では、特に分譲マンション広告において「マンションポエム」と揶揄されるほどの、抽象的なキャッチコピーが目立つものとなっているが、それは往時と比べて、もはや周辺地域の開発ビジョンが具体的に描きにくくなっていることも一因なのかもしれない。
IMG_20210822_131407
 団地はさすがに開発から半世紀が経過しているだけあって道路も狭く、古さを感じる造りだ。両国周辺は明治期の開拓地でありほぼ平坦な地形であるにもかかわらず、わざわざ大谷石を積み上げて道路との高低差を設けているので、空き地の再利用も進みにくい。

 建ち並ぶ家を見ると、明らかにバブル期以前の70年代に建てられたと思われる家屋が目立つ。北総の限界分譲地は、開発自体は70年代でも当初の取得者はほとんど投資家ばかりで、実際に家屋が立ち並び始めるのは80年代末以降であるところが多いのだが、富里に限っては、分譲開始からほぼ同時期に家屋が立ち並び始めた団地も少なくない。つまり投機目的ではなく、富里は居住用としての実需も確実に存在したという事である。
IMG_20210822_131504
IMG_20210822_131623
IMG_20210822_131709
団地はさすがに古さを感じさせる造りになっている。家屋も70年代の水準のものが目立つ。

 成田空港の衛星都市として開発が進んだ「成田ニュータウン」の一般入居が開始されたのは1972年。しかし、成田ニュータウンは当時も今も、企業庁が主導して建設された大規模な計画都市であるために居住性能が高い分、地価は決して安くない。1978年の成田空港開港までに、旧富里村では夥しい数の分譲住宅地が乱開発されて急激に人口流入が進むことになったが、それは成田ニュータウンのみでは到底受容しきれなかった爆発的な人口流入の補助的な受け皿として機能していたものだ。

 あまりに急激に進む人口流入と乱開発を抑制するため、旧富里村は1979年、当時の空港周辺の自治体としては異例とも言える線引き(市街化区域と市街化調整区域の区域区分)を断行したのだが、それは既に後手に回りすぎていたうえ、後になって調整区域に指定されてしまった住宅団地に、開発の抑制に伴う資産価値の低迷という痛みを押し付けるものとなってしまった。

 見込み違いと切り捨てるのは容易いが、空港建設当時はまだ未開発の小村であった富里において、市北部(七栄)と南東部(十倉)の両者の間に、これほどまでに開発の落差が生じてしまう事態を、果たしてどれほどの市民が予測できただろうか。後出しジャンケンのような線引きがもたらした副作用を、富里は今なお克服できていない。
IMG_20210822_132346
 線引き前に開発された既造成地においては、調整区域でも自己居住用の住宅の建築は可能なのだが、個別の地域事情に通じていないネット銀行などは、市街化調整区域における住宅ローンは一律不可との要件を明示しているところもあり、やはりその流動性は市街化区域に比べて大きく落ちてしまう。富里の中古住宅は、築年が古いものが多いこともあって時折極端に安価なものが市場に登場するが、それはこのような富里固有の事情によるものである。

 北総における限界分譲地の衰退は、線引きの有無とは関係なく発生しているものだ。歯止めの利かない乱開発を抑制するために当時の富里村が決断した区域区分の選択は決して誤りではなかったとは思う。だがそれにしても、富里インター周辺を始めとした市街化区域の発展ぶりと、両国を含めた市街化調整区域内の旧分譲地の荒廃の落差は今やあまりに大きくなりすぎて、もはや修復不可能なものに見えてくる。
IMG_20210822_131658
 両国南団地を含めた富里市十倉周辺は、2019年9月に房総半島を襲った台風15号がもたらした停電被害において、県内でも最も復旧が遅れた地域のひとつであった。比較的早く送電が復旧した市北西部に対し、10日ほどの停電下の生活を強いられたうえ、支援の手も届かなかった十倉周辺の住民が、SNS上で、市幹部は十倉地域に関心がないのかと怨嗟の声を上げる模様を僕は幾度も目にしている。個人的には、自然災害の責任のすべてが市当局にあるとは考えないが、そのような解釈をしてしまう住民が出てきても無理もないほど、あらゆる面でその格差は埋めがたいものになっているのが現状だ。
IMG_20190912_083120
倒木によって停電被害が拡大した十倉地区の被害の模様(2019年9月12日・富里南小学校前にて撮影)
スクリーンショット (176)
スクリーンショット (177)
スクリーンショット (178)

2019年の台風15号発生時、停電の復旧が遅れ支援も手薄になっていた十倉周辺地域への対応の不備を指弾するSNS利用者。

 両国南団地は2期にわたって分譲が行われているが(前掲の新聞広告のうち、4枚目のみ第2期のもの)、第2期の分譲地は、第1期と比較して極端に道路の状態が悪い。富里の分譲地は開発時期が古いものが多く、管理状況も、また団地の規格も、今日の住宅市場では太刀打ちが難しくなってしまっているものが目立つ。なまじ、他自治体の分譲地と比較しても住宅の密度が高い分、かえって閉塞的な状況に追い込まれている気がしなくもない。
IMG_20210822_130257
IMG_20210822_130710
第2期の分譲地内。
IMG_20210822_130009
IMG_20210822_130204
第2期の分譲地は路盤の状態が良くないところが目立つ。

 ところで第2期の分譲地には、顕彰碑と人物像が設置されている区画がある。碑文を読むと、団地近隣の地元企業の創立者で、富里の競技会の設立に尽力した人物であるとのことだが、これまで訪問した分譲地において、区画が顕彰碑の設置場所として利用されている光景を目にしたのはここが初めてである。

 なるほど確かに、顕彰碑の設置のためだけに数百坪の土地を取得して管理するのは不経済であるし、30坪程度の狭小地は、むしろ住宅地よりもこのようなある種の「作品」の設置場所に相応しいのかもしれないが、それにしてもこのような袋小路の分譲地の奥に顕彰碑を設置して、果たしてどれほどの数の市民の目に触れるものであるかと思う。ただ、顕彰碑は極端な事例としても、分譲地の一活用例としては興味深いものであると思うので、余談にはなるがここで紹介したい。
IMG_20210822_130153
地元有力者の顕彰碑が建立された区画。
IMG_20210822_130122
IMG_20210822_130138
顕彰碑に併設された碑文。

 両国南団地は、時代に翻弄され続けた富里の限界分譲地の現状が、実に分かりやすい形で凝縮されている住宅地だ。空港建設の開始とともに、大きな期待をもって鳴り物入りで販売された分譲地は、時の施策や社会情勢の急変に翻弄され続け、当初の思惑とは大きく異なり、今なお辺境の分譲地として市場に取り残される結果となってしまった。富里市が2020年に公開した「都市計画マスタープラン」において、両国四つ角(旧富里駅周辺)については「両国周辺生活拠点」エリアとしての整備構想が掲げられているものの、両国南団地はその構想からも外れた空白エリアとなっている。

 近年においては北総のみならず、全国的に郊外住宅地の衰退が問題視されつつあるが、郊外住宅地の荒廃を抑制するために富里のように後出しとは言え線引きの断行をするか、それとも他自治体のようになおも未線引きのまま民間の自由意思に任せるか、その命運の差はこれから顕在化してくるのだろうか。
IMG_20210822_125506

両国南団地へのアクセス
富里市十倉
・東関東自動車道富里インターより車で約20分
・京成成田駅より千葉交通バス「久能両国線(ハニワ台車庫行き)」 「南団地」バス停下車